ちゃらかして、九州諸方の隠れ切支丹を嗅ぎ当てては、信教復活の遊説に、頼まれもせず手弁当で巡回して歩くような、悪く云えば宗教タンデキ家的な世話好きが続々現れたようだ。復活切支丹の先覚たる光栄に酔っぱらったとでもいうのか、山野を忍び歩き人目を怖れ怯えつつ、よその村のイロリ端で神の教えを一席ぶって宗論をたたかわせ説服するのがイヤ面白くてたまらん、というゾッコン打ちこんだ楽しそうな様子がアリアリ見えるようだね。浦上切支丹史でもよんでごらんなさい。アリアリ見えますよ。その後この村からは神父になって説教を本職にする人がたくさん現れた由だが、復活後のソモソモの気風がそうだから当り前の話さ。
そこで諸村の隠れ切支丹がみんな改めて洗礼をうけて正式のカトリック教徒に復活したかというと、そうではないから、おもしろい。
新しい切支丹のお祭の方法はオラガ村の祖先伝来のやり方と違う。オラガ村の方のが正統派で、新しいやり方に改めた者はインチキだ。祖先伝来の正統な教えを忠実にまもっているのはこのオラガ村だぞ、と云って、威張り返って、今日に至っても、てんでローマ法王のカトリックを相手にしない部落がタクサンある。それは全部長崎県に限られているけれども、二十数ヶ村あるそうだね。たしか浦上の一部にもオラガ村の先祖伝来の正統を主張してホンモノのパッパ様(法王)のカトリックをてんで受けつけない部落があったようだ。復活切支丹の連中はこのガンコ派を「はなれ」と呼んでいる。ブラジルの神道連盟のようなものさ。日本人の在るところ、切支丹であろうと、日本神道であろうと、共産主義であろうと、ホンモノ以上の絶対正統派や、絶対不敗派が必ず存在して、力み返っているものらしいや。ガンバレ。ガンバレ。先祖伝来のパッパ様や、先祖伝来の天皇様や、先祖伝来のコミンフォルム様がついてらア。
十年前に私が浦上の地をふんだとき、それは「火の消えたような」とでも申しましょうか、私がそこに感じたのは孤絶した哀れさ、オドオドした悲しさでした。そのとき彼らは、いつの時代よりも白眼視されていたのかも知れませんね。捕吏を敵とする時代はあったが、こんなに民衆を敵にした時代はなかったのではあるまいか。彼らが一切の上にいただく天にまします父は、日本の頭上の天にではなくて、西洋の頭上の天にまします。先祖代々日本の地上に住んではいても、彼らは日本の天の下には住
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