まる処置の一ツにすぎなかったのである。
 だから秀吉の禁令は多分に感情的でもあるから、その激する時は甚しくても、一面に気まぐれで、例外も抜け道もあるけれども、家康の方は算術の答として割りだされたような無感情な結論で、気まぐれも例外も抜け道もない。鎖国、ならびに切支丹断圧。論争もいらん。理由も不要。ただ断乎たる禁令と、その徹底的な実施あるのみ、である。
 だから、信者は地下にくぐらざるを得ん。一方その指導者たる神父は、主としてマカオならびにマニラから日本に潜入する。潜入した神父はヨーロッパ人も多いけれども、日本の学林で一応の教義を学んだ後に国外へ脱走して、マニラやマカオで更に勉強し、修道士(当時これをイルマンという)とか、司祭(つまり神父、パードレである。これを当時バテレン“伴天連”という)に補せられて、さらに日本へ逆潜入する。つまり越境してモスコーへ逃げ、そこで共産主義の筋金を入れて日本へ逆に密入国するという今日の様相と変りはない。外国からの思想が断圧されれば、思想の如何を問わず、時代を問わず、こういう様相が現れるのは当り前のことであろう。
 家康の禁令後約三十年間にわたって、潜伏信徒と、これを指導するために潜入する神父の活動がつゞいたが、やがて潜入する神父も跡を断ち、表向き信教を奉ずる者もなくなった。もっとも、長崎周辺や天草等に、表面は仏教徒を装うて子々孫々切支丹を奉じた部落はいくつかあり、それらは明治維新となって信教の自由が許されてから公然たる信教を復活したが、その第一番目の復活が、浦上部落の隠れ切支丹であった。
 私がこの前に長崎を訪れたのは今からちょうど十年前であった。季節もちょうど今ごろであったろう。その年の十二月に太平洋戦争が始まったのだが、そのキザシは至るところに見ることができた。長崎港内の造船所のドックにはいりきれずに大きな図体を湾内に露出していたのは「大和」であったらしい。
 私はそのとき「島原の乱」を書きたいと思い、それを調べるためにあの地方を二週間ぐらいブラブラしていたのである。長崎では、毎日図書館に通って、そこにだけしかない郷土史料を筆写していた。「南高来郡一揆の記」だとか、そのほか三四そこで筆写したものを、戦争中にどこへどうしたか見失ってしまったのはバカげたことであるが、切支丹資料の主要なものはそのころたいがい集めておいたし、地図なども揃え
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