怪物を珍しがって集ってきたから、島民にとっても見なれた怪物ではなかったようだ。
大島の学校では野球がはやっているらしく、通学にグローブやバットをたずさえている男の子が多い。一方、セーラー服の女の子が時々カバンを頭にのッけて椿の並木を歩いている。妙テコリンの対照は、ひどく大島的でもあるし、日本自体のカリカチュアのようでもあったね。
この島は流れる水も湧く水もないし、米もない。しかしそういう欠乏は島民の生活からは分らない。どの家でも牛を飼っているし道路の上で牛の乳を搾っている。有るものがひどく豊富に有るように目立つだけで、無いものが無いように目立たないのは、太古の人の如く大国主的に大らかで健全なんだろうね。
物資がないと云えば、痛快にないね、観光ホテルでは、お客が食べたいものを注文するとそれから買い出しに行くというノンビリしたものであった。さればとて旅客がそれで不自由を感じるわけでもなく、ちゃんとそれが出来上った生活があって、要するに旅だ。大島には、いろいろな物資だのネオンだの大島銀座、ハブ銀座などはないが、コルシカやタヒチのような旅があるね。コルシカやタヒチへ行ったことはないけれども、神経衰弱の文明人がたぶんそこで感じる旅と同じような何かを大島でも感じられるような気がするね。その旅は日本の温泉旅行とはまた違うものだ。豊富な食べ物がなければならんというものではない。その土地の限定の中へ旅人を限定する力のあるのが「旅」なんだね。つまり、旅行者というものを、常に一時的に自分のタメトモにするだけの何かが必要なのだね。メリメがコルシカに、ゴーガンがタヒチに見出した旅のような、何かが。まア、ゴーガンはタヒチのタメトモには相違ないが、しかしタヒチのゴーガンから我々が感じるものは、彼がそこで土人の女と結婚したというタメトモ的なことではなくて「旅」ですよ。大島には、とにかくそれがあるね。日本内地には長いこと汽車にのっても、なかなかそういうところはありません。とにかく名題の大ホテルにメニューがなくて、お客の注文をきいてから買だしにでかけて注文とちがった妙な牛乳料理を静々と運んできても、それが一向に苦にならず却ってなんとなく親しめるような「旅」というものを大島に於てやや味うことができるね。そして、村のアンコたちと外輪山で噴火でも見物しておれば、否、ホテルのバルコンでボンヤリ見ていてもいいが、メリメがヴィナスの石像に殺される男の幻想を得たような旅愁を、実はすべての旅行者が感じる理由があるのかも知れん。日本にも、それぐらいの島があるということにしておこうよ。
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第九号」
1951(昭和26)年7月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第九号」
1951(昭和26)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
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