るのだが、仙人は空をとんでとぶとりの飛鳥の里の久米川上空にいたり、センタクしている女の子のフクラハギを見て墜落したね。よってそれより人間に戻ってその女の子と結婚し、仲よく暮したそうだ。イニシエもイマも目にしむフクラハギ吉野はカナシ花ミエズ。久米の人マロかね。
先月、仙台の旅行から戻ってきてから肺炎をやった。旅行の疲れのせいではなくて、伊東の町に火事があって猛スピードで見物に行って水を浴びたせいであった。コレヲ歓楽の果トイウカ、ペニシリンには感激しました。たッた一晩で熱が落ちた。ドクター曰く、ペニシリンに狎《な》れるナカレ。肺炎ハ肺炎デアル。二週間ハ注意シタマエ。しかし締切が待っているから仕方がない。翌日から仕事にかかり、競輪にも出かけましたね。再びどッと床につき、今度はいつまでも微熱が去らない。吉野旅行が延び延びとなり、ついに意を決しペニシリンと注射器一式にダイヤジンをぶらさげて吉野へついたら、花の散ったあとであった。しかし、どうせ花を見ない私である。久米ノ仙人の末流さ。
神武天皇が熊野から八咫《やた》の烏の先導で吉野にかかったとき、尾のある人間が井戸の中から出てきて、その井戸が光った。お前は誰だと問うたら、国ツ神で名を氷鹿《ひか》という者だと答えた。これが吉野|首《おびと》の祖先だと古事記に書いてある。その井戸が今も残っている。
竹林院という修験道の宿坊が今は旅館になっている。万事アルバイト時代である。そこの名園(?)から竹林派という造庭上の名が起ったのだそうだが、そこのフモトの汚い谷底に神武天皇の昔光ったという井戸があるのである。谷底といったって、吉野の谷には水というものが殆どない。吉野川は岩石山水の美で名高い渓流であるが、これは吉野山の外側をぐるッと一周して大峯山脈から豊富な水を下流へ運んでいるけれども、山を距てた外側のことで、吉野山の内ブトコロには水がない。吉野の町は両側が谷だ。両側の深い谷にはさまれて、下から上へ桜の名所がエンエンつづいているのだが、両側の谷には殆ど水というものがない。地質のせいかね。そこで吉野山の頂上ちかく上ノ千本のあたりに、大峯山脈のドテッ腹から清水をひいてきて水道をつくり、町民はこの水道を飲料に用いている。井戸を掘っても水がでないのだ。
だから、吉野山に井戸水があるということは例外なのだ。清水というものも、甚しく乏しい量で、後ダイゴ天皇の御製に、枕の下に水くぐる音、とあるが、なるほど吉水院の門前の家には竹のトヨで山腹から清水をひいてチョロ/\流れているのを現に用いているけれども、その清水の溜り水が深く濁りよどんで臭気があるほど流れている水量はチョロ/\にすぎない。吉野の宿屋はこの吉水院と同じように深い谷の上に一列に並んでいるが深夜になっても私の枕の下は水の音がくぐらなかったね。恐らく雨がふれば、眼下の谷に水流の音がトウトウと鳴るのであろうが、お天気の日は枕の下はほとんど水音はないね。実に高い谷なんだ。私の泊ったサクラ花壇という妙テコリンな名の旅館の座敷から見ると、はるか眼下にトンビやカラスが舞いまわり木の枝にとまっている。実にはるか眼下の木の枝にです。トウトウと谷が流れて然るべきだが、吉野山なるものは殆ど水がないのである。
だから、吉野に於ては、むかし、むかし、井戸があるとすれば、実に最高の宝であったに相違ない。吉野の親分が井戸の中から這って現れたというのは当然の話ですよ。東京の親分は省線の駅を縄張りにマーケットをつくるが、吉野の大昔の親分はたった一ツの井戸を縄張りにマーケットを造ったにきまっていや。高い水を売りつけてボッたんだね。貴重な水だから、濁っていても光りかがやくさ。
吉水院の前には珍しく清水があったし、名も吉水だから、吉野をひらいた役の行者がこゝに庵室を造ったというのも、こゝが水にめぐまれていたせいかも知れない。その庵室が後年の吉水院、今の吉水神社、後ダイゴ天皇の仮の宿舎です。この庵室は鎌倉時代の建築で、後ダイゴ帝の泊った時のままのものだ。後ダイゴ帝の遺品には楽器が多いや。御岳丸笙、国軸丸笙という笙があったし、七文字笛、高麗笛という笛の精が中に住みついているようなのもあったね。楽記という書物もあった。続拾遺和歌集があった。風流でいらせられる。詩歌管絃に身をかためて京都を脱出あそばしたね。字も名筆だ。この帝、感情豊富ナリ。しかし、水の乏しい吉野で、枕の下に水をくぐらせてしまったのは、誰しも傷心やみがたければ、そうもなろうというものだろう。だいたい人の判断が視覚に幻惑される例は多いね。この山この谷の姿を見ればトウトウと谷の流れや至るところに清水の流れを思うのは自然なのさ。この山に水がないときいた方がビックリするよ。全山冷めたく清らかな清水にあふれているように思われますね。桜ノ花
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