「御陵ハ山辺道ノ勾之岡ノ上ニアリ」とあり、景行天皇には「御陵ハ山辺之道ノ上ニアリ」とある。
この古代の道が今も残っているのだ。東に伊賀伊勢方面へ、西に河内方面へ、と東西にのびる道が三輪の町で丁字形に岐れて奈良方向へ北上している。今日も古代のように人がそこを歩いているのだが、どういう証拠があって、これを古代のままの「山ノ辺ノ道」と断定されたのか私は知らない。私はその道を通ってみた。今は賑やかな町となっているところもある。賑やかだが自動車がようやく一台通れる道だ。道で自動車とすれちがった。私たちの自動車は自発的に後退して向うの車がすれちがうのを待った。向うの車がサンキューと云ってすれちがうかと思いのほか、あやしくも心にくし、向うも後退して通路をつくり、私たちの通過を待つではないか! なんたる礼節! 古代日本はかく在りしか。見上げたる神々の子孫よ。と思いつつ敬々《うやうや》しくかの車を通過すれば、この車に乗りたるオノコらは手に手にメガホンをもち、これなん選挙の自動車にてありけり。二日の後が投票日さ。三日目からは決して人に道を譲らない自動車でした。
家並を外れると、なるほど山の辺にかかって北上し、右手山際に、景行、崇神両帝の陵をすぎ、石上神宮があって、やがて現代教祖のお筆先賑う丹波市となるのである。
いわば吉野も、この古の道の支線の一ツだ。伝に曰く、役《えん》の行者がひらいた道さ。そして今も年々歳々山伏の通る道である。この地帯は山伏の聖地である。吉野には蔵王堂があって、この聖地の本堂だ。そして金峰山のテッペンから大台ヶ原全体にかけて、すなわち山伏の根本道場だね。蔵王堂は木造建築としては東大寺の次ぐらいに大きいのだそうだが、実にヌッと突ッ立ってる様が山伏的にブザマで、美的じゃないね。この本堂の前に人だかりがあって、本堂のキザハシの上で洋装の女の子が炭坑節を唄っていたよ。桜まつりと、いうんだそうだ。私の行った日は、桜まつり歌謡曲の日。その翌日は、ストリップ桜ショウの日、と宣伝ビラにあったね。山伏の根本道場のキザハシでストリップをやるのさ。役の行者以来、法術によって何でも祈りだすのが山伏というものさ。
吉野山に立って北方を見ると、天は山々の壁によってさえぎられ、一きわ高いのを龍門岳というね。ここに昔、久米の仙人が住んでいたのだ。その山々の向うに飛鳥の地があって大和盆地があ
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