は、この神一ツを祀ったのではなく、同時に天神地祗あらゆる神々を各地に祀ったのであるが、伊勢と並んで大立物と目されるものに大神《オオミワ》神社、これが大国主を祀る総本山だ。石上神宮が又曲者で、これもその近いころに征服された豪族の氏神の如くであり、大倭神社なるものも強力だった国ツ神、亡びた豪族の産土《うぶすな》神の如くである。征服した各豪族の産土神を興し、その祖神を神話にとり入れて同族親類とし、人心シュウランに努めたものと思われるのである。
こういう神話の人物、いわゆる国ツ神とよばれ、天皇家以前に日本の一地域の統治者の一人であったと目せられる人物のうちで、甚しく奇怪滑稽で、おまけに最も深く伊勢と縁のあるのが猿田彦という人物だ。
神話によると、天孫降臨の時、天のヤチマタという辻に立っていたのが猿田彦。身の丈七尺、鼻が七寸、目の玉が八咫鏡《やたのかがみ》の如く、口尻が輝くというのは何のことだか分らないが、赤ホオズキの如し、何が赤ホオズキだか、とにかく天狗の先祖のような異形な先生である。
変な奴が立っているから天孫一行も行悩み、天ノウズメの命という女神に命じて、お前は面勝《オモカツ》だから、あの怪物をまるめてこいと使者に立てたのだそうだ。最初の軍使は男に非ず、女であった。面勝というのは心臓に毛が生えたというような意味だろうか。天のウズメは胸もあらわに、ヘソの下に紐をたれ、ストリップの要領で天狗の先祖のところへ押しかけて行った。その次の条になると、学者の諸先生方々はこれを美しく、つまりワイセツの意味でなく解釈しようと懸命に努力されるのが例であるが、どうもムリがすぎるようだ。最も平易に解して、色ごとでギャングを手なずけたと見るのが至当のようである。よって猿田彦は天孫の先導に立ち、任終って、故郷の伊勢五十鈴川上に帰るに当り天のウズメに送ってくれと同行をもとめ、送られて帰ったという。御両氏、後日円満に夫婦の如くであったように思われる。
要するに猿田彦なる先生は、伊勢五十鈴川上に住む親分、ギャングの親玉であったらしい。垂仁天皇の朝、倭姫命《やまとひめのみこと》が霊地をさがして歩く折、猿田彦の子孫と称する者が五十鈴川上に霊地があると知らせに伺候し、かくてそこに神鏡を奉安するに至ったという。もっとも、このことを記している倭姫世記という本は信用ができない本だそうだ。
この親分に限って生国居住地がハッキリしている。五十鈴川上のギャングなのである。ところが当時の他の親分が、みんな然るべき大神社に祀られているのに、この親分は天孫の道案内まで務めながら、彼を祀った著名な大神社というものはない。故郷の五十鈴川上の猿田彦神社の如きもチッポケ千万なもの、大国主の大三輪神社その他諸国に数々の大神社、スサノオの八坂神社等々に比べて、神話中の立居振舞相当なるにも拘らず、後世のモテナシ、まことに哀れである。今回の戦争の結末にてらしても、色仕掛にまるめられて侵略者の道案内をつとめたなどという親分は、いずれの国に拘らず、国民に愛されないのかも知れない。彼は神楽の中では、赤ッ面の鼻の長いピエロである。彼は自分の領地をさいて、侵略者の祖神を祀る霊地に捧げるほど奉仕的な忠義者であったが、意外にも世間の受けが悪く、天皇家の史家も芸術家もサジを投げて、忠義な彼を愚かなピエロにしなければならなかったのかも知れない。即ち後日の彼の運命は滑稽にして悲惨である。貝の口へ手の指を突っこんで締めつけられて海中へひきこまれ、ソコドキ、ツブタチ、アワダツという三ツの慌しいモガキ方をして死んだそうである。多情多恨で、失敗を演じているのは神々の通例、大国主などはそれによって人気いや増す有様であるのに、猿田彦はどうもいけない。節操なき者はついに民衆に愛されないのか。大国主は戦い敗れて亡びた首長であった。猿田彦は裏ッ先に節を屈し、美姫を得て終身栄えたであろう。しかも民衆の批判は、彼をして貝に指をはさまれ、海中へひきこまれてもがいて死なねばならぬように要求する。しかし彼の実人生は決してそうではなかったであろう。五十鈴川上の地を神霊の地として朝廷に捧げたのは、彼の子孫ではなくて彼自身であったかも知れない。そうすることによってマーケットの親分となり、十手捕縄も同時にあずかり、代議士にも当選して、存分に栄え、大威張りしてめでたく往生をとげたのかも知れない。それ故に彼の死後が栄えないのが当然であるか。民衆の批判が常に正当だとは限らない。民衆の批判の陰に泣きくれている魂もある。その魂の言葉を綴るのが文学の役目でもあるのである。
庚神は猿田彦を祀ったものだという説もある。宇治には北向庚神をはじめ七ツの庚神があるそうだ。このことは鮓久の先々代のメモによって知ったのである。しかし、庚神の祭神が猿田彦だというのは大いに当てにならないことで、この祭神の正体が判明する時は、古代日本の正体がよほど判明した時だ。
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旅行者の多くは見落しておられるかも知れない。現に宇治山田へ三度目という田川君が見落していたが、あの地方一帯の民家の三分の一は、入口にシメをはり「蘇民将来子孫」とか「笑門」という札を掲げているのである。正月ごとに新しくかけかえて一年中ぶらさげておくのである。
武塔神が北海から南海の女をよばいに旅行の折、その地に蘇民将来という兄弟があった。兄は貧乏、弟は富んでいたが、武塔神が宿を乞うと弟は拒絶したが、兄は快く泊めて粟をたいてモテナシてくれた。八年後に武塔神が再び訪れ誼《よしみ》に報いようと茅の輪をつくって兄の一家に帯びさせた。その年に疫病起って蘇民一家を残すほかの住民はみんな死んだ。即ち吾はスナノオの命なり、後世疫病ある時は蘇民将来子孫なりと云い、茅の輪をもって腰に帯をすれば難をまぬかれるだろう、と教えて立ち去った、という伝説によるのである。
元来京都祇園社の信仰にもとづくもので、祗園の末社に蘇民社というのがあるそうだ。その他諸国に蘇民将来子孫の護符をうりだす神社仏閣はいくつか在るとの由であるが、伊勢のはどこの神社の発行でもない。手製のもので、裏面には急々如律令と書くのだそうだ。昔はたぶん軒並みに全部やっていたものと思われるが、今ではシメだけで護符をつけない家が半分以上ある。
蘇民将来の伝説は、道祖神、石神《シャグジ》、庚神などの正体と共に、今もって全く謎だ。ソミンショーライという音からして日本語とは異質の感じであるが、蘇民という漢字にこだわるのは、いけないようだ。なぜなら、伊勢地方に於ては「蘇民将来子孫」の札よりも「笑門」の札が数倍多く、信州だかでは蘇民祭をソウミン祭と云ってる所もあるそうで、ソミン、ソウミン、それからショウモン、いずれも同一の何かを訛《なま》っているように思われる。どれが原音であるか、又、どれが原音に最も近いか、それは今では判断がつかない。祗園社の蘇民伝説、武塔神やスサノオが蘇民の情誼《じょうぎ》に報いたという説は、どこにも有りふれた報恩説話に後世の人がかこつけただけで、ソミン札の原因はそういうものではなく、もっと深くある地区の民衆の魂に根ざしている何かがあるように思われる。しかし武塔神の伝説にも特に「南海の女によばいして」と、蘇民の居住地を南海と示しているのは注意すべきではなかろうか。この地方のように、民家の半分ちかくが今もって蘇民将来子孫の護符をはりだしている地が他にもあるのか私は知らない。京都では軒並みにチマキを門にぶらさげて魔除けにしているが、蘇民将来の護符はあんまり見かけない。
宇治山田郊外には蘇民の森というのがあるのである。二見村の旧五十鈴川の流域にある。今の五十鈴川には二ツの河口があり、二見の江村へそそいでいるのが古いのだそうだ。古い河口の海岸にあるのが例の夫婦岩で、昔は川が最良の交通路だから、遺跡が陸伝いよりも河沿いに残るのが、自然である。地形によってはとりわけそうで、内宮外宮間は鎌倉ごろまで山伝いで、平坦な路がなかったという話であるから、神宮のできた初期に於ては、町の賑いは五十鈴川が海にそそぐところ、二見ヶ浦のあたりに在ったのかも知れないし、猿田彦の縄張りも、その辺の賑いを背景にしていたのかも知れない。蘇民の森は、松下神社と云い、旧河口にちかいところの鳥羽街道にあるのだが、祭神はスサノオの命を中に、右に不詳一座、左に菅原道実とある。道実は雷と化して京都をおびやかしたオトドだから、スサノオの命と並んで祀られるのは理のあるところ。不詳一座というのが何様だか知れないが、他の二神から推して荒々しい神様であることは想像できる。荒々しいという意味は、その裏側に、その神の一生が悲劇的であった、ということを意味しており、その悲劇的な一生に寄せる民衆の同情が、その神の怒りや荒々しさの肯定となって現れてもいるのである。
本殿裏が蘇民の森だが、裏へまわってみると、この森はどう考えても古墳である。その古墳は神殿の真後の円形の塚一ツであるか、更にその後の山もふくめて特殊な形をなしているのか私などには分らないが、塚であることだけは確かなようだ。そして、例の私の悪癖たるタンテイ眼によると(学者の鑑定眼とちがって私のは探偵眼だからなさけない)不詳一座という名なしの神様がこの塚の中に眠りつつある当人であり、思うに旧二見ヶ浦マーケットの親分あたりではないかと思うのである。
さて、私がいとも不思議なタンテイ眼を臆面もなくルルと述べ来った理由をお話しなければならないことになってきた。
伊勢の国、宇治山田といえば、大神宮、天皇家の祖神を祭る霊地であり、天皇家に深く又古いツナガリのある独特のものが民家の中にもひそんでいようと思われるのが当然なのである。ところが実情はそうではなくて、天皇家の日本支配以前のものに相違ない原始宗教めくものが、他の土地よりもむしろ根強く残り、すでにその意味は失われているが、形態だけは伝承されている。民家が魔除けに門にはるのは大神宮のお守りではなくて蘇民将来子孫の護符であるし、明らかにこの土地の豪族であり、しかも最初に朝廷へ帰順し道案内の功績をのこした猿田彦は、朝廷の敵であった豪族が諸国に多くの大神社に祀られて多大の民間信仰をうけた形跡を残しているにひきかえて、その郷土に於てすらも、さしたる神様ではないのである。
私の伊勢神話は、ここから小説になるのである。
猿田彦は最初に天孫民族に帰順し、その祖神を自分の土地に勧請するほどの赤誠を見せたがために、却って人望を失った。しかし猿田彦は天孫民族の後楯を得たことによって、彼の競争相手であり、たぶん彼よりも強大な豪族であった二見の誰かを倒すことができたのである。私がかく推察するのは、猿田彦の居住地たる五十鈴川上にくらべて、五十鈴河口の二見が当時としてはより賑やかで恵まれた聚落であったに相違ないという想像にもとづき、したがって、そこにより強大な親分がいた筈だという空想上の産物だ。それが蘇民将来だか誰だか分らないが、あるいは蘇民の森の塚にねむり表向きスサノオの名をかりている神名不詳の一座に相当するのかも知れない。最初の帰順者、最初の忠臣である故に、人気を失った猿田彦と、その犠牲者である故にひそかにしたわれる神名不詳の塚の主。
貝に指をはさまれて海底へひきこまれて死んだという猿田彦は海岸の住人には人望がなかったらしいな。伊勢からは建国当初海産物の貢物が夥しかったというが、これも猿田彦のニラミで、ムリに供出させたのかも知れん。だいたい日本神話というものは、民間伝承から取捨選択し、神々の人気を考慮して、都合よくツジツマを合せたと見られるフシが多い。猿田彦は最初の帰順者、道案内の功臣でありながら、民間に人気がないために、神話の上でも奇怪なピエロに表現されざるを得なかったのではなかろうか。ムリにツジツマを合せたから、日本神話はダブッてもいる。神武天皇を案内した金鵄《きんし》は、全身光りかがやくという猿田彦に当るのであろう。猿田彦も天のヤチマタに立ち、顔を合せる天孫族が目をあけることができなかったというあたりは
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