るからで、今年の正月に至って、五ヶ日間にはじめて二十万人の参拝客が下車したという話であった。去年の下車客、その五分の一の由。
 私は皇居前の雑草の行列にドギモをぬかれていたせいで、伊勢では誰にもドギモをぬかれず、雑草の代表選手の行うところを、我自ら行って雑草どものドギモをぬいてやろうと腹案を立てていた。案内役の田川君には気の毒であるが、未だ夜の明けやらぬうちに神宮へ参拝して、行く手にミソギを行う怪人物の待つあれば我も亦ミソギして技を競い、耳の中から如意棒をとりだし、丁々発矢、雲をよび竜と化し、寸分油断なく後れとるまじと深く心に期していた。
 内宮に歩いて二三分という近いところに「鮓久《スシキュウ》」という妙な名の旅館がある。未明に参拝するのだから、近い宿でないとグアイがわるい。そこへ到着、直ちに書店へ電話して「宇治山田市史」というような本がないかと問い合せるが、ハッキリしない。田川君業をにやして、山田|孝雄《よしお》先生宅へ走ろうとしたが、先生すでに仙台へ去ってなし。時に「鮓久」主人妙な一巻を女中に持たせてよこす。表紙には随筆と墨書してあるが、中味はペンで書いたものだ。ここの先々代が古老の話を書きとめておいたものである。これが大そう役に立った。なぜなら、この聞き書きは、神宮よりも主として市井の小祠について記されたもので、庚神だの道祖神などについて録されていたからだ。一例、次の如し。道祖神というものは、通例、道の岐れるところに在るものだが、宇治山田のはそうでなく何でもないところに在るのが多い。それについて、辰五郎という古老(勿論今は死んでいるが、当時八十五)の談によると、昔は岐れ道にあったが、慶応四年行幸のあったとき、通路に当って目ざわりだというので、他へ移したものだ、という。本来の位置が変更して行く一つの場合にすぎないが、しかし、これによって推察されることは、物の本来の位置などは此《かく》の如くに浮動的で、軽々に信用しがたいということだ。
 翌朝三時半、目をさます。旅館から借りた本を読む。外は風雨。六時田川君を起す。六時十分、出発。外は真ッ暗。人通り全くなし。宇治橋の上に雪がつもっている。足跡なく、我々の足跡のみクッキリのこる。即ち、我らの先にこの橋を渡った者一人もなしという絶好のアリバイ。伊勢の神様は正直だ。時に暗黒の頭上をとぶ爆音あり。思えば私も元旦にほぼこの上空らしきところを通過した記憶がある。去年の夏ごろから東海道の航空路は変ったらしい。私は伊東に住む故に、分るのである。去年の初夏から、しきりに伊東上空を飛行機がとぶようになった。その時までは全く爆音をきかない伊東市だったのである。私はそれを朝鮮事変のせいだと思った。戦線へとぶ飛行機だと思っていたのだ。ところがこの元旦に旅客機にのると、箱根をとばずに、伊豆半島を横切り、駿河湾を横断し、清水辺から陸地にかかって渥美半島先端から伊勢湾を通過。つまり伊東上空をとんでいたのは旅客機だったことが判った。思うに昨春丹沢山遭難以来、航路が変ったのであろう。
 怪物の待ち伏せるものなく、我らをもって第一着となすという明確な証拠があってはハリアイがないこと夥しい。東京の雑草どもも伊勢までは根気がつづかぬらしいと判明すれば、神様に同情したくもなろうというもの。よって五十鈴川で顔を洗い手を洗う。水温は山中の谷川に比較すれば問題にならぬほど、生ぬるい。伊東の音無川は河床から温泉がわいて甚しく生ぬるい谷川であるが、五十鈴川はそれよりもちょッとだけ冷めたい程度で、これなら真冬でもミソギは楽ですよ。中部山岳地帯の谷川ともなれば、真夏でも、五秒間膝から下を入れていられないほど身を切る冷めたさのものだ。神楽殿でニワトリがないている。鶏小屋をのぞきこんだが、暗くて、どんなニワトリだかシカと見えなかった。拝殿前で一人の衛士とすれ違う。これが我らの往復に於て道ですれちがった唯一の人物であった。戻り道で夜が明けそめる。断雲が四散し、一面に美しい青空一色になろうとしている。神楽殿に灯がともり白衣の人々が起きて働きだしている。我らを見て白衣の人一人、お札を売る所の灯をつける。よって神材のクズで作ったエト(つまり今年は兎)のお守り、エハガキ等々、金二百六十円也の買い物をする。生れて始めてお守りを買ったのである。買わないワケにゆきませんや。神域寂として鎮まり、人間は拙者ら二人。そのためにワザワザ白衣の御方が電燈をひねって立ち現れておいでだから、知らんフリして通過するワケにゆかないです。神様からオツリを貰うのも不敬であるから四十円は奉納してきました。尚《なお》本殿に向って参拝の時には、外套をぬぎ襟巻をとりました。全て雑草の為すべきことは、これを為し遂げたのであります。宇治橋へ戻ってきたら、すでに橋の上の雪が掃かれていた。
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