けだし、いつまでたっても、たった二ツの足跡というのは、小学校の一年生にもいとカンタンに真相が見破られて、足跡を残した拙者にしても何となく罪を犯し神様を土足にかけたようで軽妙な気持ではなかったのである。
神域に最も接近した民家を「ダルマヤ」と云い、その看板と並んでウェルカムという横文字が書いてありました。全ての家が門を閉し、炊煙いまだ上らず人ッ子一人通らぬ神様の街は寂しいものです。この味気なさに比べれば、古市の遊女屋に泊った方が健全であったかも知れません。
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日本歴史というものは、奈良朝以前のことはどこまで信用していいのか全く見当がつけかねるようだ。神代記は云うも更なり、この神宮を伊勢の地に移したという崇神垂仁両朝の記事の如きも、伝説であって、歴史ではない。
神話とか、記紀以前の人皇史は、民間伝承というものでもない。日本にはそれまでに何回もの侵略や征服が行われたに相違ない。そういうことが何回あったか判らないが、その最後の征服者が天皇家であったことだけは確かなのである。そして天皇家に直接征服されたものが、大国主命だか、長スネ彦だか、蘇我氏だか、それも見当はつけ難いが、征服しても、征服しきれないのは民間信仰あるいは人気というようなものだ。
今日の全国の神社の分布から考えて、民間に最大の人気を博していたのは大国主命、それにつづいてスサノオの命である。大国主命は曾て日本の統治者であった如くであり、それが天皇家か、天皇家以前の誰かに征服されて亡びた如くであるが、その民間の人気は全く衰えなかった。しかし、大国主が日本元来の首長であったと断定することはできない。彼も亦誰かを征服したのかも知れないし、朝鮮から渡ってきた外来人種であったかも知れないのである。
天皇家は日本を征服したが、民間信仰や人気をくつがえすことはできない。人民の伝承の中に生きている大国主やスサノオの人気を否定し禁圧することができないとすれば、それを自分の陣営へとり入れるのが当然だ。明治時代に朝鮮を征服してその王様を日本の宮様にし、日本天皇の親類にしたように、死んだ大国主やスサノオを自分の祖先の親類一族にすること、これが日本神話の形成された要因の一つである。要するに、今日天皇が民衆に博しているような人気を、当時の大国主が博していたのであろう。
崇神垂仁朝に伊勢に大神宮を移した時に
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