そっくり信用する勇気がくずれるのだ。彼はうち見たところ、どうしても五十前後六十をだいぶ過ぎているというのは本当かな。蘇民将来子孫の土地は面妖である。
和田金の牛肉はたしかにうまい。けれども、そう神秘的にうまいわけではない。ロースのカノコシボリの光沢が美しいのにくらべれば、牛肉の味自体は光沢だけのものはない。特別頭ぬけてうまいわけではないのだ。一般の牛に比べれば開きはあるが、神戸牛にくらべれば、そう開きのあるものではない。当然そうあるべきことである。教祖のゴセンタクがどうあろうとも、牛肉自体は料理の素材ではあるが、料理そのものではない。食べ物は料理に至って職人の腕の相違というものも現れ、大きな開きもついてくるかも知れないが、素材自体の開きなど、一級品同志になれば知れたものであろう。目くじら立てて、あげつろう種類のものではなかろうではないか。しかし、教祖のゴセンタクほど神秘的ではないが、うまいことは確かである。伊東市ではロクな牛肉が手に入らぬから、たしかに松阪牛にはタンノウした。それに特別手がけて肥育した牛肉は消化がよいのか、もたれなかった。牛の飲んだビールやサイダーが私の胃袋を愛撫してくれるのかも知れない。まことに伊勢は神国である。
和田金でひさぐ牛、一ヶ月三十五頭ぐらいの由。予約がないと席がないほど千客万来のところへ、店頭で牛肉を買っている人々のごった返す混雑といったらないのである。平和な時世にこういう混雑はめったに見られる光景ではない。それにつけても、松阪という町は殺風景で汚い町だ。全く間に合せに出来ているような町で、三井という日本一の大金持が現れた町は、さすがにかくあるべきか。その松阪の三井邸は戦後人手に渡って旅館となり、めっぽう高いので名をなしているそうである。
伊勢の町々といえば鳥羽へドライブした程度で、あとは車窓から見ただけであるが、鳥羽だの渡鹿野などという南海のヘンピな漁村がいかにも古来住みなしたという落着いた町の構えであるのに比べて、街道筋の市街はなんとなく間に合せという殺風景な汚らしさがつきまとっているようである。伊勢は海から。実にその感が深い。他の土地に於ては、漁村は小汚いものである。伊東などは漁場のうちでは相当に富裕な方に思われるのだが、漁師町の殺風景な汚なさは他と変りがない。伊勢に於ては、その反対で、街道筋の殺風景なのに比べて、はるか南海
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