拾った女のようではなかった。それだけに胸が痛む。今にして思えば、映画館で拾われたのは松夫の方であった。拾われるのも、これが最後であろう。どうしても綾子を放せない気持が強まるばかりであったが、その気持を強く押しつける勇気は衰える一方だ。自分の中にいかなる実力の存在も信じることができなくなってしまったからである。たった一日の革命以来、急速度に没落してしまったのである。
★
試験のとき、松夫はしばしば水木由子と顔を合わせなければならなかった。水木由子は平然としていたが、松夫はいつも急いで目をそらして心の中では宙をふむほどオドオドしなければならなかった。むろん水木由子はロイド眼鏡をかけていたが、その眼鏡が鋼鉄の兵器のようにすさまじい力で彼を圧倒した。彼はそれに怯えた。そして、その眼鏡から聯想しなければならないのは自分のケダモノの手だ。そのために一そう眼鏡に怯えてしまう。鋼鉄の兵器に狙われた一匹のケダモノのように身も心もすくんでしまうのだ。
松夫の最後の試験の日、その試験のあとで偶然水木由子にすれちがった。彼女は一人であった。あたりには人がいなかった。彼が落第しても水木由子は卒業するに相違ないから、これが彼女の見おさめであろう。彼女が一人で、またあたりにも人影がないのを見ると、松夫はこの機会にケダモノの手を拭き消したいということをふと思いついた。ケダモノの手の怯えは彼の堪え難いものだった。生きる限りこの手と共にいなければならないという事実ほど絶望的なものはなかったのである。
松夫は水木由子に追いついて、よびとめた。脱帽すると、彼の頭も額も汗でいっぱいで、それは益々無際限に溢れたって湯気をふいた。赤面してオドオドし、いまにも卒倒しそうな様子である。革命時の颯爽たる武者ぶりにひきかえ、あまりにもサンタンたる有様であるから、水木由子は落ちついて上から下まで彼を観察する余裕を得ることができた。
「ボクのケダモノの手について、お詫びしておきたかったのです。たぶん、お目にかかるのはこれが最後でしょうから、この機会を逃すと、ボクは一生、ケダモノの手に苦しまなければならないのです」
「ケダモノの手?」
「そうです。それがボクの表現です。いえ、ボクの実感なんです。そのために苦しんでいます。その苦しみはいまアナタにお詫びして許していただくことができても消えないかも知
前へ
次へ
全12ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング