のかた、日本には恋愛といふものが封じられ、恋愛は不義で、若気のアヤマチなどゝ云つて、恋愛の心情に対する省察も、若気のアヤマチ以上に深入りして個別的に考へられたこともない。恋愛に対する訓練がミヂンもないから、お手々をつないで街を歩くこともできず、それでいきなり夫婦、同衾とくるから、男女関係は同衾だけで、まるでもう動物の訓練を受けてゐるやうなもの、日本の女房は、わびしい。暗い。悲しい。
女大学の訓練を受けたモハンの女房が良妻であるか、そして、左様な良妻に対比して、日本的な悪妻の型や見本があるなら、私はむしろ悪妻の型の方を良妻也と断ずる。
センタクしたり、掃除をしたり、着物をぬつたり、飯を炊いたり、労働こそ神聖也とアッパレ丈夫の心掛け。けれども、遊ぶことの好きな女は、魅力があるにきまつてる。多情淫奔ではいさゝか迷惑するけれども、迷惑、不安、懊悩、大いに苦しめられても、それでも良妻よりはいゝ。
人はなんでも平和を愛せばいゝと思ふなら大間違ひ、平和、平静、平安、私は然し、そんなものは好きではない。不安、苦しみ、悲しみ、さういふものゝ方が私は好きだ。
私は逆説を弄してゐるわけではない。人生の不幸、悲しみ、苦しみといふものは厭悪、厭離すべきものときめこんで疑ることも知らぬ魂の方が不可解だ。悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見、これをあるひは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。
恋愛といふと得恋、メデタシ/\と考へて、なんでもさうでなければならないものだときめてゐるが、失恋などゝいふものも大いに趣味のあるもので、第一、得恋メデタシ/\よりも、よつぽど退屈しない。ほんとだ。
先日、本の広告を見てゐたら、人妻とある詩人の恋文を、二人が恋しながら、肉体の関係のなかつた故に神聖な恋だと書かれてゐた。をかしな神聖があるものだ。精神の恋が清らかだなどゝはインチキで、ゼスス様も仰有《おつしや》る通り行きすぎの人妻に目をくれても姦淫に変りはない。人間はみんな姦淫を犯してをり、みんなインヘルノへ落ちるものにきまつてゐる。地獄の発見といふものもこれ又ひとつの近代の発見、地獄の火を花さかしめよ、地獄に於て人生を生きよ、こゝに於て必要なものは、本能よりも知性だ。いはゆる良妻といふものは、知性なき存在で、知性あるところ、女は必ず悪妻となる。知性はいはゞ人
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング