すごい雨量のおかげで全山神代杉の巨木が密林をなしているそうだ。しかしスリバチを伏せたような島にダムを造るとは、これいかに。そんなうまい方法がありますかね。
私がビックリ仰天して、こう質問すると、中谷先生の返事はアッサリしたもんだったね。
「カンタンですよ。山にハチマキさせるんです。何段にも。斜面の雨をそっくり集めて下へ落す。上のハチマキから下のハチマキへ順に落して行くのですよ。普通のダムにくらべて、むしろ金がかかりません。ハチマキといっても山をそっくり囲む必要はないでしょう。山のヒダのところにだけ、ハチマキさせればよろしいのですから」
おどろいたな、この時は。しかし、甚しくガッカリもした。わが身の拙さを嘆いたのである。
科学もある点まで推理だ、と云ったのは、こういうことさ。これは相対性原理というような独創とは違うね。まさしくタンテイの領域ですよ。もしくは密室殺人の手口を発案するのと似たようなタンテイ眼の所産だね。
しかし、タンテイに比べて、話が雄大だね。私もふとイタズラにダムの設計など考えた覚えはあるが、屋久島にそッくりハチマキさせるという手は全く思い及ばなかった。
つらつら思うに、こういう手口こそは、むしろ専門家の盲点で、素人タンテイが一番気付きそうなことなのである。科学は素人にはとッつきにくいが、素人にも手がでるのは、まず、この程度のことさ。ところが、それがてんで思い至らなかったのだから、わが身の拙さを甚しく嘆いたのである。
しかし、屋久島にハチマキさせて、あの莫大な雨量をそっくり受けとめるとは考えたもんだね。確実に可能であるし、たしかに莫大な費用を要するとも思われない。ダムというものは垂直のカベで水を遮るものだと考えてハチマキに思い至らなかったところに素人の悲しい盲点があったんだね。
このことは私に大きな教訓を与えてくれましたよ。考え方が、何かに捉らわれていないか。あることを考えるたびに、必ずこう疑ってみる必要があるね。今までも、常に一応疑ることを忘れないツモリであったが、自信がくずれたのさ。もっと突きつめて疑ることが必要だ。
今になって山口の手記を読むと、彼の人柄がかなり分るね。下駄を買ってこようと思って四畳半の襖をあけると、常ちゃんとよぶ声がした、ハッとした足元に血まみれの紀子ちゃんが倒れていた、という件りは彼のウソのうちで最大の傑作だ。これは誰でも思いつけるという凡庸なウソではない。ところが、こうウソをつく以上は先ず医者へ走るとか医者へ電話をかけてから警察へ走るのが自然だろうが、そこまでは計算していない。しかし、彼が医者へ走らずにすぐ警察へ走ったとしても、それを必ずしも矛盾と見ることも不可能なのである。人は慌てれば、そう筋の立つようにばかり行動できるものではない。むしろ慌てた行動に筋が立たんということは、彼は犯人でないという心証を与えるかも知れない。
しかし、それは刑事の側からのことで、ウソをついてる本人は、本来はもっと計画性があり、筋が立つようにやるはずだ。山口にそれだけの筋の正しい計画がないのは、彼は智能犯的な複雑な頭がないせいであろう。単純な頭なんだね。彼に接した記者連は、むしろそこに、ひッかかったのだろう。
「口はうるさかったが気持のよい旦那さん、おかみさん。私を本当によく可愛がってくれた。二三日前まで風邪をひいていました時、わざわざお医者をよんでくれた。その時本当にうれしかった。正月の休みのとき、元さん(殺した長男十一歳)をつれて浅草に行き映画とサーカスを見せた。元さんはサーカスを見るのは始めてであると本当に嬉しいようであった。紀子ちゃん(殺した長女十歳)とはよくコーヒーを飲みに行き私によく甘えていた」
犯行をごまかすためのウソだとだけ見るのは当らない。こういう表現のできる人間にはタイプがあるようだ。私を大事にしてくれるお父さんお母さん、などと時々涙ぐんで人々には語りながら、父や母をぶったり蹴ったりしている人間のタイプである。単純で、怒りっぽいが、涙もろくて妙に執念深いところもあるという凡庸なタイプ。それ自身は決して犯罪者のタイプではない。いくらでもザラにあるタイプだね。
私は山口を異常性格とは見ないのである。山口の本質はオールマイティを失うまいとする不安と、自信のなさ、劣等感だという。(週刊朝日)しかし、それは万人にあることだろう。そして社交としての着物をかなぐりすてると、突然ヤケを起してケツをまくって居直る。それも万人にあることだ。山口の場合はそれがドギツクでているから異常性格の所以だというが、これまた事と次第によっては万人がやりかねないものを蔵していると私は思うのである。
文士である私は、そのようにしか考えられないのである。ザラにあるタイプの人間がいきなりかかることを行うのではないのである。そこに至る特殊な道程があったのだ。小説はそのような道程を書くことでもある。するとそこに現れるものは平凡人が特殊な事情によってそうなっただけで、異常性格というものは、殆どないという結論だ。私は精神病者であったゲーテやニイチェやドストエフスキーの作品ばかり読んだり引用したりしているのが、おかしいと思うのである。一番平凡人を書いた人、健全な平凡人の平凡でまた異常な所業を書いた人、チエホフをなぜ精読しないのだろう。本当の人間を書いた人はチエホフであろう。人間の平凡さをこれぐらい平易に描破した人はないが、見方を変えれば、あらゆる平凡人がみんなキチガイで異常性格だと彼は語っているようなものだ。チエホフは古今最高の人間通であろう。環境をきりはなして人間はあり得ないものだ。精神病医の場合は一見特に環境をきりはなして病人を見てはいけないように思われるが、彼らは環境ぬきに、病気だけを見ているのが普通だ。なぜなら病人や病気のタイプは環境ぬきでも分るものだ。人間が分らなくとも病気は治せるものである。精神病のお医者ではフロイドだけは人間を知っていたね。
しかし東大の精神科の先生は私に語った。精神分析学は病気を治す学問ではない、と。これは、たしかに、その通りだ。精神病医学という病気を治す方法としては内村先生の方法がたしかにフロイドよりも正しいと私は思うね。その限りに於て、精神病医は人間を知らなくとも病気を知っておればよろしいわけだ。
だが、八宝亭事件の如き際に、犯人を解説する人として精神病学者は適当ではないように私は思う。精神病学者には病気は分っても人間は分らんようだね。かかる解説はチエホフ的でなければ、そして環境と人間を一体に見究めなければ、正体はつかめない性質のものだろう。
最後に太田成子嬢がどこまで協力したかという問題は、安吾タンテイには全く見当がつきません。
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四八巻第五号」
1951(昭和26)年4月1日発行
初出:「新潮 第四八巻第五号」
1951(昭和26)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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