。だが、それほど冷静な男なら、自分を見た唯一の人物、二階の山口さんをなぜ訪問しなかったのだろう。要するに、下手人は彼ではないせいか。たまたま護身用に薪割を持っていた女が、何かに怯えて逆上的に四人を叩き斬ったのであろうか。男が下手人なら、二階の人物をそのままに生き残しはしないだろう。なぜなら、女は多くの人に見られているが、男を見たのは山口さんが一人なのだから。
信用組合へ十四万円おろしに行った女は、三文判だからダメですと云われて、では出直して参ります、と引さがったそうだ。兇行の室内から三文判を探しだして満足したのか、実印をさがしたが見つからなかったのか不明であるが、あれほど信用組合の時間を気にしていたところをみると、三文判で用が足りるものと満足していたのかも知れないね。
とにかく、時間は気にしても、すでに現場が発見されて手がまわっているかも知れぬことや、人に疑われそうな挙動を残して歩くことが不利であることなどをてんで気にかけない様子は、牛の如くに鈍重な、しかし金を握ることに対してのみは地底の火の如くにまッしぐらな逞しい意志力を感じさせるじゃないか。それとも、時間ということに、秘密な重大な意味があるのかも知れん。この怪牛のような女にくらべれば、左文嬢などはなんと人間らしく可憐であるか、その比ではないのである。
帝銀の犯人だって、一同がバッタバッタと倒れるや、ことごとく慌てふためき、開け放しの金庫の中に見えている大金に注意する精神力もなく、目前に有り合せの金を握って逃げたのである。この犯人は、行員を殺すことを意志してはいても、眼前に死ぬ人を見て、空想とちがった現実に慌てたところがあったのだろう。
わが太田成子嬢ははからずも四人をメッタ斬りにして、それほど慌て、おののいている様子はないらしいや。多くの人に顔を知られているのに、すぐ現場の近所をうろつきまわって、時間だけは気にしても、捕われる不安の様子がないのだから。ただ時間だけ念頭にかかるという妙な一途な思いつめ方の奇怪さは論外だ。犯罪者は犯罪の現場へ何食わぬ顔で立ち寄りたがるというが、そんな一般的な人間なみなところは感じられないね。そんなところへ立ち寄りたいような子供じみた、オモチャを弄ぶような心理はないらしく見えらア。オスシだって、十のうち一ツのこして平らげているのも大したものだ。非凡というか、むしろ、超凡とでも云うのかね。
小平だって、強姦の現場の近くへ人の近づく声をきくと、慌てて女をしめ殺してしまうような、殺人鬼的とはいえ、とにかく人間らしい怯えはアリアリ分るのだが、この女の神経のふとさは、人間として扱いようがないぐらい、同族の弱さがないようだ。
そうかと云って、小平ほど憎たらしく、イヤらしい気も起らないのは、人間的なところがないせいだろうね。つまり、小平のやったことは、とにかく人間の魂の奥をさがせば覚えのあることだから、憎しみもありうるが、太田嬢は微々たる人間の如きものではないのである。怖るべきメスの怪牛だと思えば、憎むどころか、堂々たる武者ぶりに敬服するね。とても勝てんわ。我らの相手ではない。人間の中でこのお嬢さんと対等につきあえるのは、戦争という怪物だけさ。
とにかく我ら微々たる人間は、微々たる人間同士で交りを結びましょうや。
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私は一ツごとに蛇足を加えるのは好まないのだが、先月の「フシギな女」について、東京新聞の小原壮助先生があんまり低能な批評を下しているから、補足することにします。
この小原壮助という人は批評家の中でも特別頭の悪い人だとは思いますが、作家の作品に対して軽率きわまる読みちがいをして、読みちがいを論拠に批評するのは壮助先生に限りません。「フシギな女」の場合はそのバカバカしい読みちがいを指摘することができますが、小説などの場合には、それができないのです。小説家はどんなにバカげた読みちがいを論拠に悪評されても、それを反駁したところで水カケ論で、ただ自己弁護だと思われるだけがオチですね。ですから小説家は別に反駁もせずに見送っているわけですが、批評家がいかにバカであるかということは、その機会あるときには云っておく必要があると思います。「フシギな女」は論理的にそれをなしうるチャンスですから、蛇足を加えることにいたします。
小原壮助先生の批評によると、
「安吾探偵は山口や検察当局やジャーナリズムの示唆にひッかかって、太田成子や陰の男にこだわり、山口を疑らずに、山口を殺さなかった犯人をフシギがるという俗眼をもって事件を見ている」
というのです。
先月号をお読みの皆さんはお分りでしょうが、あの文章を最も表面的に受けとれば、たとえば、小学校五六年生ぐらいに読ませれば、字面通りにそう受けとるのは当然だろうと思います。字面はたし
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