そして或時は奇術師のように、笑いと涙の混沌をこねだそうとする。ナンセンスは「意味《センス》、|無し《ノン》」と考えらるべきであるのに、今、日本のモダン語「ナンセンス」は「悲しき笑い」として通用しようとしている。此の如き解釈を持つモダン人種のために、「悲しき笑い」は美くしき奇術であるかも知れない。そして中村氏のナンセンスは彼等を悲しますかも知れない。しかし、人を悲しますために笑いを担ぎ出すのは、むしろ芸術を下品にする。笑いは涙の裏打ちによって静かなものにはならない。むしろその笑いは、騒がしいものになる。チャップリンは、二巻物の時代だけでも立派な芸術家であったのだ。
 いつであったかセルバンテスのドン・キホーテは最も悲しい文学であると、アメリカの誰かが賞讃していたのを記憶している。アメリカらしい悪趣味な讃辞であると言わなければならない。成程、空想癖のある人間ならば、ドン・キホーテの乱痴気騒ぎを他人ごとでは読みすごせない。我々は、物静かな跫音に深く心を吸われる。それでいい。なぜ「笑い」が「笑い」のまま芸術として通用できぬのであろうか? 笑いはそんなにも騒々しいものであろうか? 涙はそんなにも
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