そして或時は奇術師のように、笑いと涙の混沌をこねだそうとする。ナンセンスは「意味《センス》、|無し《ノン》」と考えらるべきであるのに、今、日本のモダン語「ナンセンス」は「悲しき笑い」として通用しようとしている。此の如き解釈を持つモダン人種のために、「悲しき笑い」は美くしき奇術であるかも知れない。そして中村氏のナンセンスは彼等を悲しますかも知れない。しかし、人を悲しますために笑いを担ぎ出すのは、むしろ芸術を下品にする。笑いは涙の裏打ちによって静かなものにはならない。むしろその笑いは、騒がしいものになる。チャップリンは、二巻物の時代だけでも立派な芸術家であったのだ。
 いつであったかセルバンテスのドン・キホーテは最も悲しい文学であると、アメリカの誰かが賞讃していたのを記憶している。アメリカらしい悪趣味な讃辞であると言わなければならない。成程、空想癖のある人間ならば、ドン・キホーテの乱痴気騒ぎを他人ごとでは読みすごせない。我々は、物静かな跫音に深く心を吸われる。それでいい。なぜ「笑い」が「笑い」のまま芸術として通用できぬのであろうか? 笑いはそんなにも騒々しいものであろうか? 涙はそんなにも物静かなものであろうか?

 すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。その人その人の容器に順って、悲しさを歌い、苦しさを歌い、悦びを歌い、笑いを歌い、無意味を歌う。それが一番芸術に必要なのだ。これ程素直な、これ程素朴な、これ程無邪気なものはない。この時芸術は最も高尚なものになる。素直さは奇術の反対である。そして、この素直さから、その人柄にしたがって、涙の裏打をした笑いがほとばしるなら、それはそれで一番正しい。そして中村氏は、かなり本質的に、「悲しき笑い」の持ち主ではある。しかし中村氏は、往々にして無理な奇術を弄している。それはいけない。

 日本では、本質的なファースとして、古来存在していたものは、客席だけのようである。勝れた心構えの人によって用いられたなら、落語も立派な芸術になる筈である。昔は知らない。少くとも今の寄席は、遺憾ながら話にもならない。僕の知る限りで、「莫迦々々しさ」を「歌」った人は、数年前に死んだ林屋正蔵。今の人では、古今亭今輔。それだけ。

 日本のナンセンス文学は、涙を飛躍しなければならない。「莫迦々々しさ」を歌い初めてもいい時期だ。勇敢に屋根へ這
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