ところもない肯定から生れ、同時に、宿命人間の矛盾も当然も混沌も全てを含んだ広大無遍の感動に由つて終るものであらう。
小説は感動の書だと、私は信じてゐる。
小説は深い洞察によつて初まり、大いなる感動によつて終るべきものだと考へてゐる。小説は一行の名描写、一場面の優秀によつて良し悪しを言ふべき筋合のものではない。同時に、全行に勝れた洞察が働いてゐても、全体として大きな感銘を持たない作品は傑作と言はれない。
シエクスピア、ゴーゴリ、ゲーテ、バルザック、スタンダアル、ドストエフスキー、チエホフ、ポオ、私の好きな作家はいくらもある。だが、近頃は、主として、ドストエフスキーとバルザックを読んでゐる。
私は最近、バルザックの「従妹ベット」を読んだのだが、恋の奴隷となつた吝嗇な老嬢が次々に起して行く行動のめまぐるしい展開には三嘆した。網の如く張りわたされた人物が、悪魔の洞察によつて摘発され、網の目を縫ふて現実よりも真実に踊りだす。
私は、小説に於て、説明といふものを好まない。行動は常に厳然たる事実であつて、行動から行動への連鎖の中に人物の躍如たる面目があるのだと思つてゐる。人間の心には無限の可能が隠されてゐる。人間は常に無限の数の中から一の行動を起してゆくのであつて、之を説明することには、何等かの点に於て必ず誤魔化しを必要とする。決して説明しきれるものとは思へない。
それに、この不可解な宿命を負ふた人間の能力では、結局暗示といふこと、即ち感じるといふこと、これが最も深い点に触れ得るのであつて、説明といふことは、もつと下根な香気少き仕業ではないかと考へてゐる。芸術の金科玉条とすべき武器は、即ちこの如何に巧みに暗示するかといふことであつて、読者の感情も理知も、全ての能力を綿密に計算して、斯う書けば斯う感じるにちがひないと算出しながら、震幅の広い描写をしてゆくべきではないかと思ふのである。
大体、これ/\の性格の人間であるから斯う/\の行動をするといふことはないのであつて、同じ人間に同じ条件を与へておいても、ふとしたハズミで逆の行動をとらないとは言へない。順《したが》つて、我々の小説では、これこれの行動をしたから、彼奴《あいつ》は結局斯ういふ奴であるといふ風に、巻をおへて初めて決定すべきものであらうかと思ふ。
バルザックやドストエフスキーの小説を読むと、人物々々が実に的確
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