つたのだ。それほども彼はポーズに憑かれてをり、彼は外形的に如何にも新らしい道徳を探しもとめてゐるやうでゐながら、芸者を芸者とよばないで何だか妙な言ひ方で呼んでゐるといふだけの、全く外形的な、内実ではより多くの例の「健全なる」道徳に咒縛せられて、自我の本性をポーズの奥に突きとめようとする欲求の片鱗すらも感じてはゐない。真実愛する女をなぜ口説くことが出来ないのか。姪と関係を結んで心ならずも身にふりかゝつた処世的な苦悩に対して死物ぐるひで処理始末のできる執拗な男でゐながら、身にふりかゝつた苦悩には執拗に堪へ抵抗し得ても、自らの本当に欲する本心を見定めて苦悩にとびこみ、自己破壊を行ふといふ健全なる魂、執拗なる自己探求といふものはなかつたのである。
彼は現世に縛られ、通用の倫理に縛られ、現世的に堕落ができなかつた。文学の本来の道である自己破壊、通用の倫理に対する反逆は、彼にとつては堕落であつた。私は然し彼が真実欲する女を口説き得ず姪と関係を結ぶに至つたことを非難してゐるのではない。人各々の個性による如何なる生き方も在りうるので、真実愛する人を口説き得ぬのも仕方がないが、なぜ藤村が自らの小さな真実の秘密を自覚せず、その悲劇を書き得ずに、空虚な大小説を書いたかを咎めてゐるだけのことである。芥川が彼を評して老獪《ろうかい》と言つたのは当然で、彼の道徳性、謹厳誠実な生き方は、文学の世界に於ては欺瞞であるにすぎない。
藤村は人生と四ツに組んでゐるとか、最も大きな問題に取組んでゐるとか、欺瞞にみちた魂が何者と四ツに組んでも、それはたゞ常に贋物であるにすぎない。バルザックが大文学でモオパッサンが小文学だといふ作品の大小論はフザけた話である。藤村は文学を甘く見てゐたから、かういふ空虚軽薄な形だけの大長篇をオカユをすゝつて書いてゐられたので、贋物には楽天性といふものはない。常にホンモノよりも深刻でマジメな顔をしてゐるものなのである。いつか銀座裏の酒場に坂口安吾のニセモノが女を口説いて成功して、他日無能なるホンモノが現れたところ、女共は疑はしげに私を眺めて、あなたがホンモノなのかしら。ニセモノはもつとマジメな深刻な人だつたわよ、と言つた。
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私は世のいはゆる健全なる美徳、清貧だの倹約の精神だの、困苦欠乏に耐へる美徳だの、謙譲の美徳などといふものはみんな嫌ひで、美徳ではなく、悪徳だと思つてゐる。
困苦欠乏に耐へる日本の兵隊が困苦欠乏に耐へ得ぬアメリカの兵隊に負けたのは当然で、耐乏の美徳といふ日本精神自体が敗北したのである。人間は足があるからエレベーターでたつた五階六階まで登るなどとは不健全であり堕落だといふ。機械にたよつて肉体労働の美徳を忘れるのは堕落だといふ。かういふフザけた退化精神が日本の今日の見事な敗北をまねいたのである。かういふ馬鹿げた精神が美徳だなどと疑られもしなかつた日本は、どうしても敗け破れ破滅する必要があつたのである。
然り、働くことは常に美徳だ。できるだけ楽に便利に能率的に働くことが必要なだけだ。ガン首の大きなパイプを発明するだけの実質的な便利な進化を考へ得ず、一服吸つてポンと叩く心境のサビだの美だのと下らぬことに奥義書を書いてゐた日本の精神はどうしても破滅する必要があつたのだ。
美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや豪奢を愛し、成金は俗悪な大邸宅をつくつて大いに成金趣味を発揮するが、それが万人の本性であつて、毫も軽蔑すべきところはない。そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するやうに、正しいことをも愛するのである。人間が正しいもの、正義を愛す、といふことは、同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存する故に意味があるので、悪いことをも欲する心と並び存する故に意味があるので、人間の倫理の根元はこゝにあるのだ、と私は思ふ。
人間が好むものを欲しもとめ、男が好きな女を口説くことは自然であり、当然ではないか。それに対してイエスとノーのハッキリした自覚があればそれで良い。この自覚が確立せられず、自分の好悪、イエスとノーもハッキリ言へないやうな子供の育て方の不健全さといふものは言語道断だ。
処女の純潔などといふけれども、一向に実用的なものではないので、失敗は成功の母と言ひ、失敗は進歩の階段であるから、処女を失ふぐらゐ必ずしも咎むべきではなからう。純潔を失ふなどゝ云つて、ひどい堕落のやうに思ひこませるから罪悪感によつて本格的に堕落の路を辿るやうになるので、これを進歩の段階と見、より良きものを求める為の尊い捨石であるやうな考へ方生き方を与へる方が本当だ。より良きものへの希求が人間に高さと品位を与へるのだ。単なる処女の如き何物でもないではないか。尤も無理にすて去る必要はない。要は、魂の純潔が必要なだけである。
失敗せざる魂、苦悩せざる魂、そしてより良きものを求めざる魂に真実の魅力はすくない。日本の家庭といふものは、魂を昏酔させる不健康な寝床で、純潔と不変といふ意外千万な大看板をかゝげて、男と女が下落し得る最低位まで下落してそれが他人でない証拠なのだと思つてゐる。家庭が娼婦の世界によつて簡単に破壊せられるのは当然で、娼婦の世界の健康さと、家庭の不健康さに就て、人間性に根ざした究明が又文学の変らざる問題の一つが常にこのことに向つて行はれる必要があつた筈だと私は思ふ。娼婦の世界に単純明快な真理がある。男と女の真実の生活があるのである。だましあひ、より美しくより愛らしく見せようとし、実質的に自分の魅力のなかで相手を生活させようとする。
別な女に、別な男に、いつ愛情がうつるかも知れぬといふ事の中には人間自体の発育があり、その関係は元来健康な筈なのである。然しなるべく永遠であらうとすることも同じやうに健康だ。そして男女の価値の上に、肉体から精神へ、又、精神から肉体へ価値の変化や進化が起る。価値の発見も行はれる。そして生活自体が発見されてゐるのである。
問題は単に「家庭」ではなしに、人間の自覚で、日本の家庭はその本質に於て人間が欠けてをり、生殖生活と巣を営む本能が基礎になつてゐるだけだ。そして日本の生活感情の主要な多くは、この家庭生活の陰鬱さを正義化するために無数のタブーをつくつてをり、それが又思惟や思想の根元となつて、サビだの幽玄だの人間よりも風景を愛し、庭や草花を愛させる。けれども、さういふ思想が贋物にすぎないことは彼等自身が常に風景を裏切つてをり、日本三景などといふが、私は天の橋立といふところへ行つたが、遊覧客の主要な目的はミヤジマの遊びであつたし、伊勢大神宮参拝の講中が狙つてゐるのも遊び場で、伊勢の遊び場は日本に於て最も淫靡な遊び場である。尤も日本の家庭が下等愚劣なものであると同様に、これらの遊び場にもたゞ女の下等な肉体がころがつてゐるにすぎないのである。
夏目漱石といふ人は、彼のあらゆる知と理を傾けて、かういふ家庭の陰鬱さを合理化しようと不思議な努力をした人で、そして彼はたゞ一つ、その本来の不合理を疑ることを忘れてゐた。つまり彼は人間を忘れてゐたのである。かゆい所に手がとゞくとは漱石の知と理のことで、よくもまアこんなことまで一々気がつくものだと思ふばかり、家庭の封建的習性といふものゝあらゆる枝葉末節のつながりへ万べんなく思惟がのびて行く。だが習性の中にも在る筈の肉体などは一顧も与へられてをらず、何よりも、本来の人間の自由な本姿が不問に附されてゐるのである。人間本来の欲求などは始めから彼の文学の問題ではなかつた。彼の作中人物は学生時代のつまらぬことに自責して、二三十年後になつて自殺する。奇想天外なことをやる。そのくせ彼の大概の小説の人物は家庭的習性といふものにギリ/\のところまで追ひつめられてゐるけれども、離婚しようといふ実質的な生活の生長について考へを起した者すらないのである。彼の知と理は奇妙な習性の中で合理化といふ遊戯にふけつてゐるだけで、真実の人間、自我の探求といふものは行はれてゐない。自殺などといふものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに、彼は自殺といふ不誠実なものを誠意あるものと思ひ、離婚といふ誠意ある行為を不誠実と思ひ、このナンセンスな錯覚を全然疑ることがなかつた。そして悩んで禅の門を叩く。別に悟りらしいものもないので、そんなら仕方がないと諦める。物それ自体の実質に就てギリ/\のところまで突きとめはせず、宗教の方へでかけて、そつちに悟りがないといふので、物それ自体の方も諦めるのである。かういふ馬鹿げたことが悩む人間の誠実な態度だと考へて疑ることがないのである。日本一般の生活態度が元来かういふフザけたもので、漱石はたゞその中で衒学《げんがく》的な形ばかりの知と理を働かせてかゆいところを掻いてみたゞけで、自我の誠実な追求はなかつた。
元より人間は思ひ通りに生活できるものではない。愛する人には愛されず、欲する物は我が手に入らず、手の中の玉は逃げだし、希望の多くは仇夢《あだゆめ》で、人間の現実は概ねかくの如き卑小きはまるものである。けれども、ともかく、希求の実現に努力するところに人間の生活があるのであり、夢は常にくづれるけれども、諦めや慟哭は、くづれ行く夢自体の事実の上に在り得るので、思惟として独立に存するものではない。人間は先づ何よりも生活しなければならないもので、生活自体が考へるとき、始めて思想に肉体が宿る。生活自体が考へて、常に新たな発見と、それ自体の展開をもたらしてくれる。この誠実な苦悩と展開が常識的に悪であり堕落であつても、それを意とするには及ばない。
私はデカダンス自体を文学の目的とするものではない。私はたゞ人間、そして人間性といふものゝ必然の生き方をもとめ、自我自らを欺くことなく生きたい、といふだけである。私が憎むのは「健全なる」現実の贋道徳で、そこから誠実なる堕落を怖れないことが必要であり、人間自体の偽らざる欲求に復帰することが必要だといふだけである。人間は諸々の欲望と共に正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必然的な展開に就ては全く予測することができない。
日本文学は風景の美にあこがれる。然し、人間にとつて、人間ほど美しいものがある筈はなく、人間にとつては人間が全部のものだ。そして、人間の美は肉体の美で、キモノだの装飾品の美ではない。人間の肉体には精神が宿り、本能が宿り、この肉体と精神が織りだす独得の絢《あや》は、一般的な解説によつて理解し得るものではなく、常に各人各様の発見が行はれる永遠に独自なる世界である。これを個性と云ひ、そして生活は個性によるものであり、元来独自なものである。一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だらうか。
私はたゞ、私自身として、生きたいだけだ。
私は風景の中で安息したいとは思はない。又、安息し得ない人間である。私はたゞ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないやうに、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつゞけ、そして、私は書きつゞけるであらう。神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰へざらんことを。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四三巻第一〇号」
1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「新潮 第四三巻第一〇号」
1946(昭和21)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
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