藤村も横光利一も糞マジメで凡そ誠実に生き、かりそめにも遊んでゐないやうな生活態度に見受けられる。世間的、又、態度的には遊んでゐないが、文学的には全く遊んでゐるのである。
文学的に遊んでゐる、とは、彼等にとつて倫理は自ら行ふことではなく、論理的に弄ばれてゐるにすぎないといふことで、要するに彼等はある型によつて思考してをり、肉体的な論理によつて思考してはゐないことを意味してゐる。彼等の論理の主点はそれ自らの合理性といふことで、理論自体が自己破壊を行ふことも、盲目的な自己展開を行ふことも有り得ないのである。
かゝる論理の定型性といふものは、一般世間の道徳とか正しい生活などと称せられるものゝ基本をなす贋物の生命力であつて、すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などといふものは例外なしに贋物と信じて差支へはない。本当の倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行はれてをり、現実に対する反逆が精神の基調をなしてゐるからである。
藤村の「新生」の問題、叔父と姪との関係は問題自体は不健全だが、小説自体は馬鹿々々しく健全だ。この健全とは合理的だといふことで、自己破壊がなく、
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