子さん、あなたがお目当なんですな」
ヤス子は毛筋ほども表情をかえず、
「私のことは私の責任で致しますことですから、欠席は無用と存じますけど」
「いえ、そこが私のお願いなんです。これは社長の命令ではありません。お願い、つまりですな、私は大浦先生が憎らしいから、ひとつ、裏をかいてやろうというわけです」
「私は大浦先生を憎らしいとは思いません」
ズバリと云った。私への敵意がこもって見えたけれども、私はこれを決意の激しさによるせいとして、たじろがない。
「だって、憎たらしいじゃありませんか。美代子さんの捜査だなんて、心にもないことを云って、卑怯ですよ」
「あの場合、それが自然ではないでしょうか。つまらぬことを、わざわざ正直に申す方が、私には異様に思われます」
「これは参った。まさしく仰せの通りです。それは実は私のかねての持論の筈だが、私はまったく、持論を裏切る、小人物の悲しさというものですよ」
こういう御婦人に対してはカケヒキなしにやるに限る。
ヤス子は初対面の博士を好ましからぬおもいで見ていた様子であるが、並々ならぬ御執心にほだされて、好意に変っているのである。ヤス子の正義と見るものは、その人の偽りなき直情であり、その人の過去の色事などは意としておらぬ。これは最もあたりまえな女の感情であるが、ヤス子はその理知と教養と凜々しい気魄をさしひくと、つまり最もあたりまえの女であり、生半可の学問で、自分の女の本能的な感情を理論的に肯定しているだけなのだ。
もとより私は、それに相応して、想をねってきたのである。
「まったく、あさましい次第です。支離メツレツ、これ実に、あさはかな嫉妬のせいです。打開けて申せば、ヤキモチによるあさはかなカラクリ、ザンキにたえません。私はだいたい、ヤキモチが好きではないのです。私は御婦人に惚れます。私の惚れるとは犬馬の労をつくし、尊敬の限りをつくすことで、私は下僕となる喜びによってわが恋をみたすタテマエなんです。私はわが愛人と遊びたい。愛とは遊ぶことです。その代り、踏みつけられてもよろしい。踏まれるためには、やわらかな靴となって差上げたいとすら思うものです。恋の下僕にとって、愛人は常に自由の筈であり、ほかに何をしようと、恋人をつくろうと、私は目をつぶっていなければならない筈です。私はヤキモチはキライです。自分にとっても、これは不快な感情ですよ。そのくせ、やっぱり、やくんです。これは本能というヤツで、まったく、なさけない次第です」
ヤス子の表情もその正座も微動もしない。私だって、切りだした以上は、オメズ、オクセズ、めったなことで、あとへは引かない。
「私も然し、たいがいのヤキモチはジッとこらえていられるのです。又、こらえていなければいけない筈のものなんですよ。けれども、大浦先生の場合だけは特別ですよ。先生と私との関係は、今までたゞもう私が犬馬の労をつくすに拘らず、踏みつけられ、利用され、傷けられるのみの関係ですから、ヤキモチ、いや、これはもう、男の意地というものなんです。特に、ヤス子さん、あなたの場合だけは、負けられない。大浦博士が旅行参加を申しでゝこのかた、私は殆ど、寝もやらず、遂に悲愴なる決意をかためた次第なんです。私はあなたを尊敬し、敬愛し、祈りたいほども愛し、あこがれていました。けれども、大浦先生に出鼻をくじかれて、あの先生と私との関係が今までもそういう関係なものですから、その惰性によって、たゞもう、ひそかに、ネチネチと思い屈し、恋いこがれるのみ、悲しい思いをしていたのです。こうして、今、うちあけることができて、私は清々しているのです。左様なわけですから、どうか、お願いです。旅行は不参ということにして下さいませんか。さもなければ、私は胸の切なさに、死なゝければなりません」
ヤス子は黙然と無表情であったが、やがて始めて意志的に笑おうとつとめて、
「私、そんなお言葉を承るには馴れていないものですから、今すぐ私の本心からの御返事ができるかどうか、心もとない気持なのです。そうまで仰有います以上は、旅行に不参と致さなければいけないように思われますから、不参することに致しましょう。お言葉に逆らうことが致しにくいように思われるための御返事なのです。私の本心がそう致したいということとは無関係なことなのです」
ひどく冷静なものである。私もいくらか戸惑いした。次の言葉に窮したという気持であったが、そんなことではいけないと、ムリに機械に油をさすようにして、
「ありがたいシアワセです。おかげで私も安心しましたが、然し、ムリヤリあなたの気持をネジ向けていたゞいた心苦しさには、当惑、むしろ、罪悪、やりきれません。私はまったく御婦人に思いをかけるということは、下僕として仕え、尊敬するというタテマエですから、何かこう、社長めいてお話するのが変テコで、まして、その関係を利用しているようなのが、やりきれないのです。社長なんかと思わずに、きいて下さい。私はあなたを尊敬し、おしたいしている下僕です。もとより私は、一介のヤミ屋、教養とても低い男です。無数に恋もしてきました。私は然しいつも恋に仕え、愛人に仕えることを喜びとしたものです。私は結婚しようの何のと、そんなウソはついたことがありません。私はいつも下僕と遊んで下さい、たゞ遊んで下さいと頼むのです。どうせ私のような者には、はじめから御気に召して下さる御婦人はありませんから、私はいつも、必死にたゞもう頼むのですよ。その代り、お気に召すよう、どのような努力も致します。仰せにしたがい、どのようにもして実を見せます。水火をいといません。どの愛人にも、そうでした。然し、ヤス子さん、地位も学もない私如き者のことですから、私のかかわりあった御婦人も御同様、学も理想も気品もない方々ばかりで、これはひとえに敗戦によるタマモノでしょう、あなたのような高貴な、また識見高い御婦人に近づき得るなどゝは、夢のような思いなのですよ。あなたから見れば、下賤、下素《げす》下郎《げろう》、卑しむべきウジムシに見えるでしょうが、恋に奉仕する私の下僕の心構えというものは、これはともかく、私がとるにも足らぬものながらこの一生を賭けているカケガエのない魂で、これだけが私の生存の意味でもあり、誇りでもあり、私の全部でもあるのです。私があなたにマゴコロこめて奉仕することを許していたゞきたいものです。如何なる仰せにも従います。犬馬の労をつくします。私はあなたの心もからだも、下僕のマゴコロの尊敬をこめて愛し仕えますから、どうか私と遊んで下さい。この願いをきゝいれて下さい」
ヤス子の顔色は相変らず犯しがたいものがあったが、むしろいくらか、やわらかな翳がさして、
「私は肉体にこだわるものではありません。終戦後、様々な幻滅から、私の考えも変りましたが、然し、理想をすてたわけではありません。肉体の純潔などゝいうことよりも、もっと大切な何かゞある。そういう意味で、私はもはや肉体の純潔などに縛られようとは思わなくなっているのです。然し、肉体を軽々しく扱うつもりはありませず、肉慾的な快楽のみで恋をする気もありませぬ。社長はよく仰有いますね。恋は一時のもの、一時的な病的心理にすぎないのだから、と。それは私も同感致しておりますのです。然し、恋の病的状態のすぎ去ったあと、肉体だけが残るわけではありますまい。私は恋を思うとき、上高地でみた大正池と穂高の景色を思いだすのでございます。自然があのように静かで爽やかであるように、人の心も静かで爽やかで有り得ない筈はない、人の心に住む恋心とても、あのように澄んだもので有り得ないことはなかろうと、女心の感傷かも知れませぬ、けれども、私の願いなのです。夢なのです。私は現実に夢をもとめてはおりませぬけれども、その夢に似せて行きたいとは思います。私は肉体や、その遊びを軽蔑いたしてはおりませぬ。肉体を弄ぶことも、捨てることも怖れてはおりませぬ。たゞその代償をもとめています。それの代りに、ほかに高まる何かゞ欲しいと思います。女の心は、殿方の心によって高まる以外に仕方がないとも思います。私の心を高めて下さる殿方ならば、私はどなたに身をおまかせ致しても悔いませぬ」
「そうですか。すると、お言葉の意味は、私はつまり、あなたの心を高める男ではないというわけですね」
「いゝえ、今までの浅いおつきあいでは、わかりかねるというだけの意味です」
ヤス子は一きわ顔をひきしめ、私をきびしく見つめて、言った。それは私を励ますような様子でもあった。母性愛の一変形というような、いわば不良児へのいたわりと激励というところであろう。そこで私がウマを合わせて、
「じゃア、見込みがないわけでもないのだな。そう考えて、よろしいのですね」
ヤス子は答えない。なんとなく、侘びしそうな浮かない様子であった。冗談が嫌いなのだろう。
「ヤス子さん。あなたを高めるといったって、事実、私は全部のものを今こゝへさらけ出しているのですよ。手練手管のある人間でもなく、頭のヒキダシの中に学問をつめこんでおく男でもありません。まったく、これだけの人間です。先程も申しました通り、つまり、恋と愛人とに奉仕する、すべてを賭けて奉仕のマゴコロを致すというだけの人間なんです。それが私の身上です。イノチなのです。それが人を、高めるのか、低めるのか、それは私は知りません。たゞ、人を傷つけないことは確かです。そして高めるかどうか、その答が、実際にためしてみた後でなくて、いったい、現れてくるものでしょうか。私は私のすべてのものに賭けて、ひたすら、あなたに奉仕のマゴコロを致したいのです。ためして下さい。そして、それが意にみたぬものであったら、もともと私は下僕です、すて去り、突き放して下さればよろしいのです。あなたへの奉仕と尊敬は、その切なさにも堪えねばならぬと命じるのですよ」
ヤス子は答えない。
「ためして下さい。私の切なる希《ねが》いをきゝとゞけて下さい。さもないと、死にます。いゝえ、ほんとですとも。この場で、今すぐにも、アッサリと、自殺します。ツラアテではないのです。私は生きているのが面倒なんですよ。私みたいなバカは、いつまで生きてみたって仕方がない。バカながら、自分のバカを感じることは、もう、タクサンという気持ですな。私は今朝、ふッと、考えたのです。一つのチャンスというものだから、この恋がダメなら、これをキッカケに、いっそ、それで死んじまえと思ったのです。そんな覚悟めいたものは、四五年前から、できていました。然し、実行の気持になったのは、今日がはじめてのことなんです。然し、もとより、死ぬことよりは、切なる思いをきゝとゞけていたゞく方が、どれだけ身にしみて有難いか知れません。どうか、私の哀願に許しを与えて下さい」
ヤス子は再び答えなかった。
私は胸のポケットへ右手をいれた。ある物を握りしめた。私はしばらく、目を閉じていた。私は自然、うなだれてしまった。私の心は寒々と澄んだ。むなしく、ひろく、何もなかった。こんなものか、と私は思った。なんの感動もなければ、悔いもない。
そして私は、握りしめたものを、胸にきつく押しつけた。心臓からの血しぶきが、胸のワイシャツに赤々とあふれ出た。
私はのめろうとする上体を起して、ヤス子をボンヤリ眺めていた。ヤス子は恐怖と驚愕にすくんだが、今にも私めがけて飛びつこうとするときに、私はガックリのめってしまった。
「三船さん、バカ、バカ」
私を抱き起そうとしたが、にわかに私の耳に口を当てて、
「シッカリして。今、医者をよびます。そんな、そんな、子供じみたことを」
私は顔をあげた。同時に、からだを起した。私は無言、呆気にとられるヤス子を見つめ、そして、ヤス子の手を静かにとって、ゆっくりと甲に接吻した。
「ヤス子さん。ごめんなさい。死ぬマネをしてみたのですよ。でも、ちょッと、死んだような気もしましたよ。ゴムフーセンに入れた赤インキですよ」
ヤス子は思いのこもった鋭い視線で私を睨んでいたが、私は平然たるものである。
「ヤス子さん、事の結果が、あな
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