さてその日から、彼は一時に懊悩狂乱、神経衰弱となり、にはかに顔までゲッソリやつれ、癈人の如くに病み衰へてしまつた。

          ★

 庄吉は後輩の栗栖按吉に当てゝ手紙の筆を走らせた。かういふ時に思ひだすのは、この憎むべき奴一人なのである。疑雨荘で女房が失踪したあとでも、女房子供と別居して彼の下宿へ一室をかりて共に勉強しようかと思ひつき、その一室がなくて小田原へ落ちのびたが、落ちのびる前日風の如くに訪ねてきて、荷物を片づけてくれたのもあの憎むべき奴であつた。
 そこで庄吉は按吉に当てゝ、この手紙見次第小田原へ駈けつけてくれ、君の顔を見ること以外に外の何も考へることができない、といふ速達をだした。
 然し彼はこの三年来、按吉ぐらゐ憎むべき奴はゐないのだつた。憎むべく、咒ふべき奴なのである。もつとも、親切な奴ではあつた。夜逃げの家も探してくれる、借金の算段もしてくれる、夜逃げごとに変る倅の小学校の不便を按じて私立の小学校へ入学させてくれる、さういふ時は親身であつた。然し彼は先輩に対する後輩の礼儀といふものを知らないのである。
 会へば必ず先輩庄吉の近作をヤッツケる。庄吉は酔つ払ふ
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