張りかへつてゐるけれども、女房よゆるせ、そぞろ悲しく、こゝが芸術の有難さだと、わが本性に根の一つもない夢幻の物語に浮身をやつし、作中人物になりすまし、朗吟の果には涙をながして自分一人感動してゐる。女房にこれぐらゐ馬鹿々々しく見えるものはない。彼女は亭主の小説などもはや三文の値もつけられない。ロクデナシメ、覚えてゐやがれ、と失踪してしまつた。
 然し彼が柄にもなくマダムに熱をあげるのは恋路のせゐ浮気のせゐでなく、むしろ文学に行きづまつたためだ。なぜと云つて、彼は全然女にもてゝをらず、女の浮気のダシに使はれ、なめられ、ふみつけられ、そのあさましさを知りぬいて、見えすいた甘い言葉に相好くづして悦に入る、バカげたこと、悲しいばかり面白をかしくもないのだけれども、芸術に自信を失つては、芸術家はもう人生まつくらだ。面白をかしくもないこと、やりたくもないことに結構フラフラ打ちこむとはこれ即ちデカダンで、自信喪失といふものゝ宿命的な成行きなのである。
 数日失踪したまゝ女房が帰らない。気もテンドウせんばかり苦痛だけれども、マダムが冷然と、アラ奥さん浮気? お見それしたわね、先生もだらしがない方ね、あん
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