なく、彼の実人生が又、彼の夢であつた。
 然し、夢が文学でありうるためには、その夢の根柢が実人生に根をはり、彼の立つ現実の地盤に根を下してゐなければならない。始めは下してゐたのである。だから彼の女房は夢の中に描かれた彼女を模倣し、やがて分ちがたく似せ合せ、彼等の現実自体を夢とすることができたのだ。
 彼の人生も文学も、彼のこしらへたオモチャ箱のやうなもので、オモチャ箱の中の主人公たる彼もその女房も然し彼の与へた魔術の命をもち、たしかに生きた人間よりもむしろ妖しく生存してゐたのである。
 私は然し、彼の晩年、彼のオモチャ箱はひつくりかへり、こはれてしまつたのだと思つてゐる。彼の小説は彼の立つ現実の地盤から遊離して、架空の空間へ根を下すやうになり、彼の女房も、オモチャ箱の中の女房がもう自分ではないことを見破るやうになつてゐたのだ。
 庄吉だつて知つてゐた筈だ。彼の女房のイノチは実は彼がオモチャ箱の中の彼女に与へた彼の魔力であるにすぎず、その魔力がなくなるとき、彼女のイノチは死ぬ。そして彼が死にでもすれば、男もつくるだらうし、メカケにもならう、淫売婦にもなるであらう、といふことを。
 彼の鬼の目はそれぐらゐのことはチャンと見ぬいてゐた筈なのだが、彼は自分の女房は別のもの、女房は別もの、たゞ一人の女、彼のみぞ知る魂の女、そんなふうな埒もない夢想的見解にとらはれ、彼が死んでしまへば、女房なんて、メカケになるか売春婦になるか、大事な現実の根元を忘れ果てゝしまつてゐたのだ。
 庄吉よ、現にあなたの女房はさうなつてゐるのだ。
 私はあなたを辱しめるのでもなく、あなたの女房を辱しめるのでもない。人間万事がさうしたものなのだ。
 あなたの文学が、あなたの夢が、あなたのオモチャ箱が、この現実を冷酷に見つめて、そこに根を下して、育ち出発することを、なぜ忘れたのですか。現実は常にかく冷酷無慙であるけれども、そこからも、夢は育ち、オモチャ箱はつくれるものだ。
 私はあなたの女房のサンタンたる姿を眺めたとき、庄吉よ、これを見よ、あなたはなぜこれを見ることを忘れたのか、だからあなたはあんなに下らなく死んだのだ、バカ、だから女房が実際こんなにあさましくもなつたんぢやないか、あなたは負けた、この女房のサンタンたる姿に。なんといふことだ、あんな立派な鬼の目をもちながら。
 私は、あなたの実に下らぬ死を思ひ、やるせなくて、たまらなかつたのだ。



底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
初出:「光 第三巻第七号」
   1947(昭和22)年7月1日発行
※底本の解題によれば、本作品のテキストは「著者の直筆原稿」をもとにしています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年3月22日作成
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