と自分で自分にさんをつけて三枝さんと自称したり三枝先生と自称する。すると按吉は、うぬぼれるな、と言ふ。なんだい、近ごろ書くものは。先生ヅラが呆れらア、てんで小手先のコシラヘ物ぢやないか、殻を背負つて身動きもできないぢやないか、第一なんだい、自分の小説を朝昼晩朗読するなんて、あさましいことはやめなさい。かういふことを言ふ。必ず言ふ。
 三枝庄吉は怒り心頭に発し、彼を知る共同の知友に手紙を書いてアイツはウヌボレ増長慢の気違ひ、礼儀を知らず、文学者の風上に置けぬ奴と宣言を発し、忿怒、憎悪、三ヶ年、憎さも憎し、然し、ふと、苦悩の度に奴を思ふ。そして速達を書いてしまふ。親友の大門次郎に絶交されたときも、やにはに奴めに速達をだして来てもらつたし、然し又、すぐ腹も立つ。
 按吉は速達を見るとすぐ来たが、あんまり庄吉がやつれ果てゝしまつたので呆気にとられた。額の肉までゲッソリ落ちて、顔がひどく小さくなり、按吉の片手の握り拳におさまるぐらゐ小さくなつて、その中に目と鼻と口だけは元の大きさにチャンとあるから、ミイラのやうに黒ずんで、喋るとまるで口だけが妖怪じみて動きだす。目と鼻と口をのぞくと、あとは黄濁した皺と毛髪だけであつた。
「あゝ、よく来てくれたな。会ひたかつたな。会へてよかつた。あれから君はどんなに暮してゐた。君の部屋は静かなのか。勉強はできたか。ああ、今日はオレは幸せだ。やうやく君に会へたのか」
 按吉は又呆気にとられた。酒に酔つた場合の外は、陰鬱無言、極度に慎しみ深くハニカミ屋で、およそ感情を露出することのない庄吉であつたから。
 庄吉は頻りに泊ることをすゝめたけれども按吉は〆切ちかい仕事があるからと言つて強ひてことはつた。それといふのが、病みやつれた庄吉と話してゐるのが苦痛で堪へられなかつたからで、一向にはやらない三文々士の栗栖按吉に〆切に追はれる仕事もないものだが、それをきくと庄吉は全然すまながつて、さうだつたか、無理にきてくれたのか、かんべんしてくれ、小さくちゞんだ顔はそれだけでもう元々涙をためてゐるやうに見えるのであつた。
 それでも按吉は色々と言葉をつくして、たとへ女房が浮田と失踪しても必ずしも肉体の関係があるとは限らない。元々痴情の家出ならともかく、亭主と喧嘩して飛びだす、さういふ場合は別で、自分はさる娘と十日あまりも恋愛旅行をしたことがあるが娘は身をまかせなかつた、女房も今度の場合のやうな家出はそんなやうなもので、一応は必ず肉体的なことはイヤだと言ふにきまつてゐるのだから、相手がまだ学生で坊ちやんの浮田のことだからそれを押してどうすることになる筈がなく、極めて感傷的な旅行にくたびれてゐるぐらゐのところだらう。むしろ機会を失し、帰るに帰られず煩悶してゐるのかも知れず、それやこれやで御両名遂に心中といふやうなことになつてもなほ肉体の関係はないかも知れぬ。世上の俗事は、案外そんなもので、一向人目につかず亭主に知られぬやうな浮気に限つて深間へ行つてゐるもの、かういふ派手な奴は見かけ倒しで、両名却つてたゞ苦しんでゐるぐらゐのところだ、などゝ慰めた。そしてまだ陽のあるうちに、さつさと帰つてきてしまつたのだ。
 按吉に慰められてゐるうちは庄吉も力強いやうな気持で、すつかり相手にまかせきり安心しきつてウンウンきいてゐたが、按吉がさつさと帰つてしまふ、待ちかねたものを待つうちはまだよかつたが、すでに来り、すでに去つた、按吉の居るうちこそはそこに何がしの説得力もあつたにしても、按吉去る、その残された慰めの言葉は何物ぞ、たゞ空虚なる冗言のみ、女房はをらぬ、男と共に失踪してゐる、この事実を如何にすべき。
 庄吉の消耗衰弱は更に又、急速度に悪化した。
 庄吉の小学校時代からの後輩で文学青年の戸波五郎が、ちやうど彼の家と露路をへだてゝ真向ひに住み、縁先からオーイとよぶと向ふの家から彼の返事をきくことができる。戸波は庄吉の東京にゐる頃、東京にすみ、本屋の番頭で、殆ど三日にあげず遊びにきてゐた仲よしで、一緒に方々借金をつくつて飲み歩いた仲間であるが、この一年来小田原へ戻つて駅前に雑文堂といふ書物の売店をひらき、毎日出かけて行く。尤も、小僧に店をまかせて、時にはオトクイ廻りもやるが、自分は昼から酒をのんでゐるやうなことも少くはなく、売上げをその一夜に飲みあげて足をだして、もう夜逃げも間近かなところに迫つてもゐた。
 心配ごとで消耗する、何よりも友達が恋しい。友達がきて一緒にゐてくれると、時には苛々《いらいら》何かと腹が立つこともあつても、どこか充ち足り、安心してゐられる。
 戸波は大飲み助で、宿酔の不安苦痛、さういふものは良く分り、さういふ時には極度に友達が恋しいもので、その覚えが自ら常にナジミの深いことだから、庄吉の友恋しさに同情して、オーイと庄吉が向
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