な取引に応じて、その俗悪な取引を天来のインスピレーションと化し自家薬籠の大活動の源と化す才能をめぐまれてゐたにすぎない。通俗雑誌の最も俗悪な注文に応じても、傑作は書きうるもの、さういふことを彼は内実は知つてゐた。
 事実に於て文学はさういふものだ。自由といふものは重荷なもので、お前の自由に存分の力作をたのむ、と言はれると却つて困却することが多い。本当に書きたいもの、書かずにゐられぬものはさう幾つもあるものではないからだ。だから、通俗雑誌などから注文をつけられたり、こんなことを書いてくれと言はれると、却つてそれをキッカケに独自な作家活動が起り易いもの、なぜなら、作家は自分一人であれこれ考へてゐる時は自分の既成の限界に縛られそこから出にくいものであり、他から思ひも寄らない糸口を与へられると、自分の既成の限界をはみだして予測し得ざる活動を起し新らたな自我を発見し加へることができ易いからだ。だから、誰からもうるさいことを言はれず、家庭のキヅナを離れ、思ふ存分に傑作を書きたいなどゝは空疎な念仏にすぎず、傑作は鼻唄まじりでも喧噪の巷に於ても書きうるもの、閑静な部屋でジックリ腰でもすへればそれで傑作が書けるといふやうな考へは悲惨な迷信だ。
 同様に亦、名も金もいらない、たゞ存分に、良心的な仕事を、などゝいふ精神主義も最も文学を誤るもので、作家が持てる才能を全的に発揮するには心の励みが必要で、名や金は要するに心の励みだ。心に励みがなければ、いかほど大才能に恵まれてゐても、それを全的に発揮することはできない。ドストエフスキーほどの大天才でも、いつたん世間の黙殺にあふと二十年近く、まつたく愚作の連続、いたづらに人を模倣し、右コ左ベン、全然自分の力量を現し得ない。落伍者ほどウヌボレの強いものはないが、ウヌボレと自信は違つて、自信は人が与へてくれるもの、つまり人が自分の才能を認めてくれることによつて当人が実際の自信を持ち得るもので、ドストエフスキーほどの大天才でも人々に才能を認められ名と金を与へられて、はじめて全才能を発揮しうる自信に恵まれることができた。
 無名作家が未来の希望に燃えて精進没入するのと違つて、庄吉の如くにいつたん一応の文名を得ながら、いつまでたつてもウダツがあがらず、書く物は概ね金にならず、雑誌社へ持ちこんでも返されてしまふ。さういふ生活がつゞいては自信を失ひ、迷ふばかりで、ウヌボレばかり先に立ち徒《いたず》らに力みかへつて精進潔斎、創作三昧、力めば力むほど空疎な駄文、自我から遊離した小手先だけ複雑な細工物ができあがるばかり、苦心のあげくにこしらへものゝ小説ばかりが生まれてくる。
 庄吉は近代作家の鬼の目、即物性、現実的な眼識があるから、もとより這般《しやはん》の真相は感じもし、知つてもゐた。そのくせ時代の通念がその自覚に信念を与へてくれず、自信がなくて、彼は徒らに趣味的な文人墨客的気質の方に偏執し、真実の自我、文学の真相を自信をもつて知り得ない。
 だから金が欲しくてたまらなくとも、通俗雑誌には書かないとか、雑文を書いちやいけないとか、注文をつけてきたからイヤだとか、まことの思ひとウラハラなことを言つて、徒らに空虚に純粋ぶる。
 東都第一流の大新聞から連載小説の依頼を受けて、燃え上るごとくに心が励んだけれども、子供の学校のこと、女房のこと、オフクロの顔を見てたんぢや心が落付かないんだ、下らぬ文人気風の幻影的習性に身を入れて下らなく消耗し、ともかく小田原の待合の一室を借りて日本流行大作家御執筆の体裁だけとゝのへたが、この小説が新聞にのり金がはいるのが四五ヶ月さきのこと、出来が悪くて掲載できないなどと云つたらこの待合の支払ひを如何にせん、そんなことばかり考へて、実際の小説の方はたゞ徒らに苦吟、遅々として進まない。
 せつかく燃えひらめいた心の励みも何の役にも立たなくなり、いつたん心が閃いたゞけ、遅々として進まなくなり、わが才能を疑りだすと、始めに気負つた高さだけ、落胆を深め、自信喪失の深度を深かめる。徒らに焦り、たゞもう、もがきのたうつ如く心は迷路をさまよひ曠野をうろつく。
 元々彼の近作はその根柢に於て自我の本性、現実と遊離し苦吟の果の細工物となり、すでにリミットに達してゐた。このリミット、この殻を突き破り一挙にくづして自我本来の作品に立ち戻るにはキッカケが必要で、それには心の励みが何よりの条件になるものであるのに、天来の福音をむざむざ逃して、今では福音のために却つて焦りを深め、落胆をひろげ、心を虚しくしてしまつた。
 待合の一室に無役に紙を睨んで、然しうはべは大新聞御連載の大作家、膝下に参ずる郷里の後輩共を引見して酒、酔つ払つてむやみに威張つて、おい大金がはいるんだから心配するな、むかしの三枝さんと違ふんだからな、酒はどうも胃にも
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