外には人のことなど考へることのない女であるから、男にも女にも友達がなく、行き場がなかつたのである。私達のアパートといふのは東京ではなく、ある地方の都市で、私はくされ縁の女とそんなところへ落ちのびてきて人は(私は)なんの為に生きるのであらうかと考へて、その虚しさと切なさに苦悶してゐた。私は毎日図書館へ行つて、仕方なしに本を読んでゐた。自分が信頼されず、何か書物の中に私自身の考へごとが書かれてゐないかと、然し、私は本をひらいてボンヤリするだけで本も読む力がなかつたのだ。ころがりこんできた女は花柳病の医者へ通つてゐたが、その医者を口説いて失敗したさうで、ダンスホールへ毎日男をさがしに行き、毎日あぶれて帰つてきて、ひとりの寝床へもぐりこむ。その冷い寝床へもぐりこむ姿がまるで老婆のやうで色気といふものが微塵もないので、私は暗然たる思ひになつたものだ。
私はそのとき思つた。男女の肉体の場ですら、この女のやうに自分の快楽を追ふだけといふことは駄目なのだ、と。マノン・レスコオとか、リエゾン・ダンヂュルーズの侯爵夫人の如き天性の娼婦は、美のため男を惑はすためにあらゆる技術を用ひ、男に与へる陶酔の代償として当然の報酬をもとめてゐるだけの天性の技術者であり、そのため己れを犠牲にし、絶食はおろか、己れの肉慾の快楽すらも犠牲にしてゐるものなのである。かゝる肉慾の場に於ても、娼婦型の偉大なる者はエゴイストではないのである。エゴイストは必ず負ける。家庭がかゝる天性の娼婦に敗れ去るのは如何とも仕方がない。
芸術の世界も亦さうだ、エゴイストであつてはいけない――私はそのころから、エゴイストといふことに今もなほ憑かれてゐるのだが、今もなほ私には皆目わからないのである。私は無償の行為といふことを思ひつゞけてきたばかりで、今もなほ私に何も分らないのは無理はない、思ふ世界ではない、行ふ世界なのだからだ。
人は道義頽廃といふ。だが、彼等の良しとする秩序とはいつたい何物であるのか。行きくれた旅人を泊めてもてなしてやつたから美談だといふ。この旅人が小平のやうな男で、親切に泊めたばかりに締め殺されたらどうするつもりなのだ。フランスの童話にあるではないか。赤頭巾といふ可愛いゝ親切な少女は森のお婆さんを見舞ひに行つて、お婆さんに化けてゐた狼に食べられてしまふ話が。だから親切にするなといふのではなく、親切にするなら小平や狼に殺される覚悟でやれ、といふことだ。親切にしてやつたのに裏切られたからもう親切はやらぬといふ。そんな親切は始めからやらぬことだ。親切には裏切りも報酬もない。小平や狼の存在が予定せられ、親切のおかげで殺されても仕方がないといふ自覚の上に成立つてゐる絶対の世界なのである。
いつたん裏切られれば崩れてしまふやうな親切を美談だと云ひ、道義頽廃嘆くべしといふ、それ自体浅はかなるエゴイズムではないか。闇の女は自由と放恣をはきちがへてゐる困つた代物だといふのだが、家庭を呪ひ自由をもとめて飛び出すのは闇の女には限らない。出家遁世も同じことではないか。闇の女になるには坊主になるよりもつと苦しい一線を飛び越す必要がある。出家遁世はほめてくれる人はあるが、闇の女は世の指弾を受けるばかりである。諸君は罪を知つてゐるか。罪とは何ぞや。貞操を失ふ女は魂の純潔も失ふ、と。然り。家庭に安住する貞淑にして損得の鬼の如き悪逆善良なる奥方を見よ。魂の純潔などはない。魂の問題がないのである。
ラスコリニコフは淫売婦に跪く、彼女は汚辱にまみれてゐるがその魂は一滴の淫蕩の血にも汚されてゐない、と。そして偉大なる罪に跪くのである、と。私はそんな甘つたるいことは考へてゐない。私の知るソーニャやマリヤはみんな淫蕩の血にまみれ、そして嬉々としてゐるのである。私のソーニャは踏みつけられたり虐げられたりはしてをらず、ノラの如くにとびだして、然し汚辱に向つて自らとびこんできたのである。まさしく自由と放恣とはきちがへてゐるのである。
だがこの世には真実自由なるものも、真実放恣なるものも存在してはゐない。自由といふものが如何に痛苦にみたされたものであるかは、我々芸術にたづさはるものが身にしみて知つてゐる。芸術の世界に於てはあらゆる自由が許されてをるので、否、可能なあらゆる新らしきもの、未だ知り得ざるものを見出し創りだすことをその身上としてゐるのである。才能には何の束縛もない。だが自らの才能に於て自由であり得た芸術家などは存在せず、真実自由を許され、自由を強要されたとき(芸術は自由を強要する)人は自由を見出す代りに束縛と限定を見出すのである。
私が戦時中嘱託をしてゐた某映画会社では、演出家達は組合制度だか順番制度だかそんな風なものをつくつて、各自の才能の貧困をそれによつて救済するやうな組織をつくつてゐたやうである
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