は意味をなさない。あらゆる少女が誘拐せられてむしろ充たされ、犯人を慕ひなつかしむに相違ない。
家庭は親の愛情と犠牲によつて構成された団結のやうだが、実際は因習的な形式的なもので、親の子への献身などは親が妄想的に確信してゐるだけ、却つて子供に服従と犠牲を要求することが多いのである。一般の母親は子供の個性すら尊重せず、A子の長所を以てB子をいましめてゐるもので、盲目的に子への献身や愛情を確信してゐるだけ始末の悪い独裁者であると知るべきである。
何事によらず、真実エゴイストでないといふことは、究極に於ける勝利であるにしても、この現世には容れられない。彼等の自己犠牲は現世の快楽を否定してゐるものではあるが、その意味に於ては自ら充たされてをり、現世の苦痛は必ずしも、彼等の苦痛ではない。然し彼等は世の秩序から迫害される。キリストがさうであつた。釈迦もさうだ。彼等の道は荊棘《けいきよく》と痛苦にみたされてゐるが、究極に於て彼等は「勝つ性格」にある。ゴッホもゴーガンも芭蕉もさうだ。芸術のために彼等の現世に課せられたものは献身と犠牲であつた。
すべて偉大なる天才たち、勝利者たちはエゴイストではなかつた、といふことができる。
然し我々凡夫の道、一般世間人の道はあべこべで、社会秩序や共同生活の理念はエゴイストでないことや自己犠牲の如きものを根幹としてをらず、他に害を与へぬ範囲に於て自己の欲望の満足、現世の悦楽をみたすことを基本としてゐるものなのである。キリスト教徒はキリストの苦痛を自ら行ふことではなく、キリストの犠牲に於て彼等の現世の幸が約束せられてゐるのだ。我々はキリストが最高の人格であることを知つてゐる。とはいへ、我々すべてがキリストの如き人格であらねばならず、我々の日常生活にキリストの如き自己犠牲が要求せられたなら、我々は悲鳴をあげるのみならず、反抗し、革命を起すにきまつてゐる。最高の人格やモラルは我々の秩序にとつては異常であり、その意味に於て罪悪と異るところはない。我々の秩序はエゴイズムを基本につくられてゐるものであり、我々はエゴイストだ。
私は十数年前に一人の女を知つてゐた。人妻であつたが千人の男を知りたいといふ考へをもつてをり、大学生などと泊り歩いてゐた女で、そのうちに離縁され花柳病になつて行き場に窮して私達のアパートの一室へ転がりこんできたので、自分の欲望のため以
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