事の控えだろうと思いましてね、まさか旧主にめぐり会うと思ったわけではないのですが、マア、なんとなく、いたわってやりたいような感傷を覚えたのですね、そのまゝ元の通り本にはさんでおいてあります。御希望ならば、その控えは明日お届け致しますが」
矢島は慌てゝ答えた。
「いゝえ、その控えは、その本と一緒でなくては、分らなくなるのです。では、お帰りに同行させていたゞいて本の中から私にとりださせていたゞけませんか」
そして矢島は承諾を得た。
各《おのおの》の本に、各の暗号がある。それは、どういう意味だろう。なるほど、彼と神尾の蔵書は、ほゞ共通してはいた。本の番号を定めておいて、一通ごとに本を変えて文通する。それにしても、彼の手にある一通には、本の番号に当る数字は見当らない。あらかじめ、本の順序を定めておいたとすれば、本の番号はいらないワケだが、それにしても、各の本に暗号がはさんであったという意味が分らない。各の本ごとに、暗号を書きしくじる、それも妙だが、それを又、本の中に必ず置き忘れるということが奇妙である。
謎の解けないまゝ、矢島は本の所有主にみちびかれて、その人の家へ行った。
ワケがあって、ちょッと調べたいことがあるから、十分ばかり、調べさせてもらいたいと許しをうけて、旧蔵の本をさがすと、十一冊あった。その中に二枚あるもの、三枚のもの、一枚のもの、合計して十八枚の暗号文書が現れた。
矢島はたゞちに飜訳にかゝった。
その飜訳の短い時間のあいだに、矢島は昨日までの一生に流してきた涙の総量よりも、さらに多くの涙を流したように思った。彼のからだはカラになったようであった。なんという、いとしい暗号であったろうか。その暗号の筆者はタカ子ではなかったのだ。死んだ二人の子供、秋夫と和子が取り交している手紙であった。
本にレンラクがないために、残された暗号にもレンラクはなかった。然しそこに語られている子供たちのたのしい生活は彼の胸をかきむしった。
その暗号は夏ごろから始めたらしく、七月以前のものはなかった。
サキニプールヘ行ッテイマス七月十日午後三時
この筆跡は乱暴で大きくて、不そろいで、秋夫の手であった。
イツモノ処ニイマス
という例の一通と同じ意味のものもあった。例の処とは、どこだろうか。たぶん、公園かどこかの、たのしい秘密の場所であったに相違ない。どんなに愉しい場所であったのだろうか。
エンノ下ノ小犬ノコトハオ母サンニ言ワナイデ下サイ九月三日午後七時半
ナイテイルカラカクシテモワカッテシマウト思イマス
小犬のことは、そのほかにも数通あった。その小犬の最後の運命はどうなってしまったのだろう。それは暗号の手紙には語られていなかった。
兄と妹は、こんな暗号をどこで覚えたのだろうか。戦争中のことだから、暗号の方法などについても、知る機会が多かったのだろう。
二人にとっては暗号遊びのたのしい台本であったから、火急の際にも、必死に持ちだして防空壕へ投げいれたのに相違ない。自分たちの本を使わずに、父の蔵書の特別むつかしそうな大型の本を選んでいるのも、そこに暗号という重大なる秘密の権威が要求されたからであったに相違ない。
その暗号をタカ子のものと思い違えていたことは、今となっては滑稽であるが、戦争の劫火をくゞり、他の一切が燃え失せたときに、暗号のみが遂に父の目にふれたというこの事実には、やっぱりそこに一つの激しい執念がはたらいているとしか矢島には思うことができなかった。
子供たちが、一言の別辞を父に語ろうと祈っているその一念が、暗号の紙にこもっている、そう考えることが不合理であろうか。
矢島は然し満足であった。子供の遺骨をつきとめることができたよりも、はるかに深くみたされていた。
私たちは、いま、天国に遊んでいます。暗号は、現にそう父に話しかけ、そして父をあべこべに慰めるために訪れてきたのだ、と彼は信じたからであった。
底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「サロン別冊 特選小説集・第二輯」
1948(昭和23)年5月20日発行
初出:「サロン別冊 特選小説集・第二輯」
1948(昭和23)年5月20日発行
入力:tatsuki
校正:土井 亨
2006年7月24日作成
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