場所であったのだろうか。
 エンノ下ノ小犬ノコトハオ母サンニ言ワナイデ下サイ九月三日午後七時半
 ナイテイルカラカクシテモワカッテシマウト思イマス
 小犬のことは、そのほかにも数通あった。その小犬の最後の運命はどうなってしまったのだろう。それは暗号の手紙には語られていなかった。
 兄と妹は、こんな暗号をどこで覚えたのだろうか。戦争中のことだから、暗号の方法などについても、知る機会が多かったのだろう。
 二人にとっては暗号遊びのたのしい台本であったから、火急の際にも、必死に持ちだして防空壕へ投げいれたのに相違ない。自分たちの本を使わずに、父の蔵書の特別むつかしそうな大型の本を選んでいるのも、そこに暗号という重大なる秘密の権威が要求されたからであったに相違ない。
 その暗号をタカ子のものと思い違えていたことは、今となっては滑稽であるが、戦争の劫火をくゞり、他の一切が燃え失せたときに、暗号のみが遂に父の目にふれたというこの事実には、やっぱりそこに一つの激しい執念がはたらいているとしか矢島には思うことができなかった。
 子供たちが、一言の別辞を父に語ろうと祈っているその一念が、暗号の紙にこもっている、そう考えることが不合理であろうか。
 矢島は然し満足であった。子供の遺骨をつきとめることができたよりも、はるかに深くみたされていた。
 私たちは、いま、天国に遊んでいます。暗号は、現にそう父に話しかけ、そして父をあべこべに慰めるために訪れてきたのだ、と彼は信じたからであった。



底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「サロン別冊 特選小説集・第二輯」
   1948(昭和23)年5月20日発行
初出:「サロン別冊 特選小説集・第二輯」
   1948(昭和23)年5月20日発行
入力:tatsuki
校正:土井 亨
2006年7月24日作成
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