だか分らない。腑に落ちかねて頁をぼんやりくっていると、ところどころに赤い線のひいてある箇所がある。そこを拾い読みしてみると、彼はにわかに気がついた。それは矢島の本である。彼自身のひいた朱線にまぎれもなかった。
「わかりました。こっちにあるのは、私自身の本ですよ。いったい、いつ、こんなふうに代ったのだろう」
「ほんとに不思議なことですわね」
 神尾とタカ子はしめし合せてこの本を暗号用に使った。そういう打ち合せの時に、入れちがったのではあるまいか。これぞ神のはからい給う悪事への諸人《もろびと》に示す証跡であり、神尾とタカ子の関係はもはやヌキサシならぬものの如くに思われて、かゝる確証を示されたことの暗さ、救いのなさ、矢島はその苦痛に打ちひしがれて放心した。
 然し一つの記憶がうかんでくると、次第に一道の光明がさし、ユウレカ! と叫んだ人のように、一つの目ざましい発見が起った。
 この本をとりちがえたのは、矢島自身なのだ。矢島は神尾にこの本を貸していたのだ。そのうちに、神尾もこの本を手に入れた。矢島に赤紙がきて、神尾の家へ惜別の宴に招かれたとき、かねて借用の本を返そうというので、数冊持って帰ってきたが、その一冊がこの本だ。そしてその本を探しだすとき、二人はもう酔っていて、よく調べもせず、持ってきた。その時、たぶん間違えたのだ。
 そのまゝ矢島は本の中を調べるヒマもなく慌たゞしく出征してしまったから、矢島の本が神尾の家に残ることとなったのである。

          ★

 矢島はたった一冊残っている自分の蔵書のなつかしさに、持参の本はもとの持主の蔵書の中へ置き残し、自分の本を代りに貰って東京へ戻った。
 然し、思えば、益々わからなくなるばかりであった。
 自分の留守宅にあった筈の、そして全てが灰となってしまった筈のあの本が、どうして書店にさらされていたのだろうか。
 罹災の前に蔵書を売ったのだろうか。生活にこまる筈はない。彼には親ゆずりの資産があったから、封鎖の今とちがって、生活に困ることは有り得なかった。
 矢島は東京へ戻ると、タカ子にたずねた。
「僕の蔵書の一冊が古本屋にあったよ」
「そう。珍しいわね。みんな焼けなかったら、よかったのにねえ。買ってきたのでしょう。どれ、みせて」
 タカ子はその本を膝にのせて、なつかしそうに、なでていた。
「なんて本?」
「長たらしい名
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