成程、茸とりの名人とよばれる人も、やつてくる。六十ぐらゐ。朴訥な好々爺である。俺の茸は大丈夫だと自ら太鼓判を押してゐる。それゆゑ私も幾度となく茸に箸をふれようとしたが、植物辞典にふれないうちは安心ならぬといふ考へで、この恐怖を冒してまで、食慾に溺れる勇気がなかつたのである。
ところが、現に私達が泊つてゐるうちに、この名人が、自分の茸にあたつて、往生を遂げてしまつたのである。
それとなく臨終のさまを訊ねてみると、名人は必ずしも後悔してはゐなかつたといふ話であつた。
かういふことも有るかも知れぬといふことを思ひ当つた様子で、素直な往生であつたといふ。さうして、この部落では、その翌日にもう人々が茸を食べてゐたのであつた。
つまり、この村には、ラムネ氏がゐなかつた。絢爛にして強壮な思索の持主がゐなかつたのだ。名人は、たゞ徒らに、静かな往生を遂げてしまつた。然し乍ら、ラムネ氏は必ずしも常に一人とは限らない。かういふ暗黒な長い時代にわたつて、何人もの血と血のつながりの中に、やうやく一人のラムネ氏がひそみ、さうして、常にひそんでゐるのかも知れぬ。たゞ、確実に言へることは、私のやうに恐れて食はぬ者の中には、決してラムネ氏がひそんでゐないといふことだ。
下
今から三百何十年前の話であるが、切支丹《キリシタン》が渡来のとき、来朝の伴天連《バテレン》達は日本語を勉強したり、日本人に外国語を教へたりする必要があつた。そのために辞書も作つたし、対訳本も出版した。その時、「愛」といふ字の飜訳に、彼等はほとほと困却した。
不義はお家の御法度といふ不文律が、然し、その実際の力に於ては、如何なる法律も及びがたい威力を示してゐたのである。愛は直ちに不義を意味した。
勿論、恋の情熱がなかつたわけではないのだが、そのシムボルは清姫であり、法界坊であり、終りを全うするためには、天の網島や鳥辺山へ駈けつけるより道がない。
愛は結合して生へ展開することがなく、死へつながるのが、せめてもの道だ。「生き、書き、愛せり」とアンリ・ベイル氏の墓碑銘にまつまでもなく、西洋一般の思想から言へば、愛は喜怒哀楽ともに生き/\として、恐らく生存といふものに最も激しく裏打されてゐるべきものだ。然るに、日本の愛といふ言葉の中には、明るく清らかなものがない。
愛は直ちに不義であり、邪《よこ》しまなもの、むしろ死によつて裏打されてゐる。
そこで伴天連は困却した。さうして、日本語の愛には西洋の愛撫の意をあて、恋には、邪悪な欲望といふ説明を与へた。さて、アモール(ラヴ)に相当する日本語として、「御大切」といふ単語をあみだしたのである。蓋し、愛といふ言葉のうちに清らかなものがないとすれば、この発明も亦、やむを得ないことではあつた。
御大切とは、大切に思ふ、といふ意味なのである。余は汝を愛す、といふ西洋の意味を、余は汝を大切に思ふ、といふ日本語で訳したわけだ。
神の愛を「デウスの御大切」基督《キリスト》の愛を「キリシトの御大切」といふ風に言つた。
私は然し、昔話をするつもりではないのである。今日も尚、恋といへば、邪悪な欲望、不義と見る考へが生きてはゐないかと考へる。昔話として笑つてすませるほど無邪気では有り得ない。
愛に邪悪しかなかつた時代に人間の文学がなかつたのは当然だ。勧善懲悪といふ公式から人間が現れてくる筈がない。然し、さういふ時代にも、ともかく人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学はあつたが、それは戯作者といふ名でよばれた。
戯作者のすべてがそのやうな人ではないが、小数の戯作者にそのやうな人もあつた。
いはゞ、戯作者も亦、一人のラムネ氏ではあつたのだ。チョロチョロと吹きあげられて蓋となるラムネ玉の発見は余りたあいもなく滑稽である。色恋のざれごとを男子一生の業とする戯作者も亦ラムネ氏に劣らぬ滑稽ではないか。然し乍ら、結果の大小は問題でない。フグに徹しラムネに徹する者のみが、とにかく、物のありかたを変へてきた。それだけでよからう。
それならば、男子一生の業とするに足りるのである。
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「都新聞 一九四二五〜一九四二七号」
1941(昭和16)年11月20〜22日
初出:「都新聞 一九四二五〜一九四二七号」
1941(昭和16)年11月20〜22日
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年9月16日作成
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