の、むしろ死によつて裏打されてゐる。
そこで伴天連は困却した。さうして、日本語の愛には西洋の愛撫の意をあて、恋には、邪悪な欲望といふ説明を与へた。さて、アモール(ラヴ)に相当する日本語として、「御大切」といふ単語をあみだしたのである。蓋し、愛といふ言葉のうちに清らかなものがないとすれば、この発明も亦、やむを得ないことではあつた。
御大切とは、大切に思ふ、といふ意味なのである。余は汝を愛す、といふ西洋の意味を、余は汝を大切に思ふ、といふ日本語で訳したわけだ。
神の愛を「デウスの御大切」基督《キリスト》の愛を「キリシトの御大切」といふ風に言つた。
私は然し、昔話をするつもりではないのである。今日も尚、恋といへば、邪悪な欲望、不義と見る考へが生きてはゐないかと考へる。昔話として笑つてすませるほど無邪気では有り得ない。
愛に邪悪しかなかつた時代に人間の文学がなかつたのは当然だ。勧善懲悪といふ公式から人間が現れてくる筈がない。然し、さういふ時代にも、ともかく人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学はあつたが、それは戯作者といふ名でよばれた。
戯作者のすべてがそのやうな人ではないが、小数の戯作者にそのやうな人もあつた。
いはゞ、戯作者も亦、一人のラムネ氏ではあつたのだ。チョロチョロと吹きあげられて蓋となるラムネ玉の発見は余りたあいもなく滑稽である。色恋のざれごとを男子一生の業とする戯作者も亦ラムネ氏に劣らぬ滑稽ではないか。然し乍ら、結果の大小は問題でない。フグに徹しラムネに徹する者のみが、とにかく、物のありかたを変へてきた。それだけでよからう。
それならば、男子一生の業とするに足りるのである。
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「都新聞 一九四二五〜一九四二七号」
1941(昭和16)年11月20〜22日
初出:「都新聞 一九四二五〜一九四二七号」
1941(昭和16)年11月20〜22日
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年9月16日作成
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