る物もない人間が、はるかに余裕ある生活を営んでいる。九ツぐらいの子供が悠々とタバコをお吸いになって、十円めぐんで下さるのである。
 然し、これを要するに、ひとたび混乱期にぶつかるや、生活拠点も思想信念も見失い、礼儀も仁義も見失って、子供の原始そのままの生活力や仁愛にも敗北してしまう平常時の訓練や教養というものが、つまり何か大事な心棒が欠けていたのだということ、これを知って出直すことが目下我々への最大な教訓じゃないかと思う。

     大衆は正直

 街頭録音の農林大臣が、私もヤミ米を食べていますと言って群集の歓呼をうけた。大衆は理論はないが、正直なものだ。日本の政治家は自分はヤミをやらないような顔をして政治を押しつけていた。それで国民が納得できるものではない。
 然し、農林大臣の正直らしい告白も、大臣としてでなく私人としてヤミをやってる、とあっては怪しいものだ。私人の腹の裏側に大臣という霞を食う腹があるのかな。このアイマイな表現から察せられることは、窮余の告白であるにすぎず、ヤミをやらずに生きられぬ現実のマットウな認識には欠けており、つまりこの現実の矛盾を合理化する政策の成算はもたないことが察せられる。大衆の歓呼の悲痛に切実な現実を三思して、ハッタリから着実な政策へ、心魂を捧げてもらいたいものだ。
 職業野球が大衆の興味をあつめはじめている。大衆は正直である。時代の嗜好がスポーツへ動くわけではない。職業野球の内容が充実したから、大衆の興味があつまるのである。
 将棋がそうだ。
 木村が十年不敗のころは、老朽八段をズラリと並べて、一向に大衆の注意をひかなかった。升田が現れ、頻りに新人の擡頭があって、大衆は正直に惹かれるのである。
 将棋の不振のころは、碁の方がまだしも呉、木谷ら新人の活躍で大衆の注目をあつめていたが、目下はサンタンたるもの。それも当然のことで、本因坊戦などという一家名を争うなどとは滑稽奇怪というほかはない。家名が意味を失った時代ではないか。
 実力第一の呉清源をはぶいて、手合を争ったところで仕方がない。呉を加えて名人戦をやるべし。名人位を中国に持ってかれてもよいではないか。
 他の異国のスポーツにおいては、各々異国の名人位に挑戦しようとしているのである。碁の初代名人が中国にとられる。おのずから、碁の世界化ではないか。実力なければ仕方がない。ケチな根性
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