い堆積するから、早くて十年、おそくて二十年ぐらいで川底が堤より高くなって洪水となる。
 だから堤を築くだけではダメのことが分りきっていても、ほかに手段を施さず、これを天災とみる。人間がふえすぎるから、洪水のたびに五十万ぐらいずつ死んで、これが天意の人口調節だという名論が、千年も前からハバをきかしている有様である。
 必要は発明の母と云い、禍を転じて福となす、災害にこりる、こりるということは大切なことだ。こりないことは、罪悪だと私は思っている。
 日本人は地震にこりないのである。近頃の有様では、殆ど戦争にも、こりていないようである。
 禍いを利用する、なんでも利用して、より良くしようとする心構えは、文明の母胎であるが、それには、先ず、こりることが第一だ。
 戦争で、みんな家を失った。家財も失った。そういうことも、これを利用するならば、災害が生きてくるのである。
 焼跡のうちに、都市ケイカクをし、区カク整理を行えば、焼けたことも生きる。
 資材がないから今はバラックが当然であるが、後日のケイカクとして、木造の私宅を許さず、鉄筋コンクリのフラット式の集団高層住宅を原則とする。さすれば地震にもたえ、狭小な国土に利用地をふやすことにもなる。それぐらいのケイカクは当然立案されて然るべく思われるのに、そんな声もきかれない。
 身のまわり、私生活は、できるだけ簡便にすべきもので、せまい国土のくせに一人一軒の木造家屋に住んでいるなどとは、愚の骨頂である。
 新生活運動とでも申すべきが起るならば、日本の大半が焼け跡となり、これから建設、という今が何より適当で、これを利用して、文化国家建設のイトグチとすべきであろう。
 禍いは、これを利用せよ。そして、進歩せよ。天災という言葉はマッ殺するようにならなければならぬ。
 地震にこりることを知らない魂は、戦争にもこりることを知らないのである。

     総意的な流行

 東郷、乃木将軍らの軍国切手が追放されたに代って、文化人の肖像を入れた「文化」切手をつくろうと逓信省が案をねっているそうだ。
 このキッカケとなったのは、七月卅日の幸田露伴の一周忌を記念して、この文豪の肖像を切手にしては、と日本出版協会から申入れがあったせいの由である。
 以上は新聞の雑報であるから、真偽のほどは確かでないが、日本出版協会とか何とか文化団体とかのやりかねないこと
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