、彼が批評を気にしていたことである。性分だから、仕方がない。それだけ可哀そうである。
批評家などというものは、その魂において、無智俗悪な処世家にすぎないのである。むかし杉山平助という猪のようなバカ者がいて、人の心血をそそいでいる作品を、夜店のバナナ売りのように雑言をあびせ、いい気になっていたものだ。然しその他の批評家といえども、内実は、同じものである。
太宰はそんな批評に、一々正直に怒り苦しんでいた。もっとも、彼の文学の問題が、人間性のそういう面に定着していたせいでもある。だから、それに苦しめられても、それが新しい血になってもいた。だから又、死ななくとも、よかった。それを新しい血にすればよかったのである。
自殺などは、そッと、そのままにしておいてやるがいい。作品が全てなのだから。まして、情死などと、そんなことは、どうだっていいことである。
僕はまだ彼の遺作を読んでいないから分らないが、今まで発表された小説の中では、スタコラサッチャン(死んだ女に太宰がつけていたアダナ)を題材にしたものはないようだ。だから、未完了のうちに死んだか、書く意味がなかったか、どちらにしても、作家としての太宰にとって、その女が大きな問題でなかったことは明かである。
昨日、某新聞が、太宰が生きていて僕がかくまっていると云って、僕を終日追跡。ソソッカシイ新聞があるものである。
文学の社会的責任と抗議の在り方
私が本欄に書いた「応援団とダラク書生」に明治大学の応援団長から六月二十日の世界日報紙上に抗議文が寄せられた。
別段筆者に謝罪を要求するというような性質のものではなく、ただ応援団と明大学生自治運動の在り方について弁明し、あわせて筆者の文学を応援団的に批判したものであるから、私はそれに弁明も反駁も加えようとは思わない。
然し、次のことだけは、明大応援団と私との問題としてでなく、文学の問題として、明確にしておきたい。
文学上の問題は、たまたま実在の何ものかに表面の結びつきがあるにしても、その個を超えて、人間の本質的な問題として、全人間的に論じられているものである。
もとより、作家は自らの文章に全ての責任を負うている。社会的責任のみならず、さらに厳正絶対な人間的責任を負うているものである。私は社会によって裁かれることは意としないが人間によって裁かれることを怖れる。私が
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