。子供はもう女学校へ間もないほどの少女である。女は子供を棄てたつもりでゐたのだ。子供は母をなつかしんで飛んできた。生憎のことに私と少女と時代物の侘住居でかちあつた。
 私は途方に暮れた。少女は私にどういふ感情を懐いてゐるか見当もつかなかつたが、元来私は子供の相手が借金取りの応待と同等以上に苦手で、お世辞の言ひやうがない。
 子供が勢ひこんで飛びこんできたとき、女の顔色の動いたのは十分の一秒ほどの瞬間にすぎなかつた。悲しい決意をかためたことが私に分つた。女は私の息苦しさを救ふために子供の愛を犠牲にしたのだ。その労力の大きさは私のどんな苦痛にも匹敵するであらうぞと、私はひそかに考へこんだほどであつた。子供は泣きだした。母は寧ろ強く子供をたしなめた。母の苦しみを思ふと、私は却つて子供を厭ふた。
 子供は自分の歓迎せられぬ立場をやがて諦らめたやうであつた。そして私と一緒の母が過去のいつに比べても不幸ではない様子を知ると、寧ろ次第に私に親しみをみせはじめてきた。私の心は常に誰に対しても打ち解けてゐるつもりであるが、進んで人をいたはつたり話しかけたりすることができない。それを見抜くと、少女は次第に積極的に私に親愛を向けはじめ、私が一向に華々しく応じなくとも不平がる様子もなかつた。
 三日目の朝、少女は東京へ帰つた。母が停車場へ送つて行つた。私は目覚めてゐたが、睡つたふりをしてゐた。かういふお別れの無意味な相手をすることは一層面倒であつたからだ。子供は私にさよならの言へないことが苦痛の様子で出発をためらつてゐたが、それは自分の苦しさよりも、私の苦しさを和らげ、母や私を安心させてやりたいためのやうに見受けられた。然し母に急《せ》かされて足りない気持をもてあましながら立ち去つて行く気配が分つた。
 家を出かけて暫くすると、然し少女は私の睡つてゐる窓の下へ音を殺した駈歩で戻つてきた。小声でさよならと言つた。暫く彳《たたず》んでゐたが、一言の答へはなくとも、やがて元気よく駈け去つた。私は尚も綿屑のやうに答へを忘れ睡つたふりをしてゐたのだ。子供の感傷に絡み合ふ自らの虚しい感傷が、なんとしてもひたすら面倒くさいものに思はれてゐたから。
 私は子供のことなんかそれつきり考へてもみない。女も全く考へてゐない。それからの数日、私達は一向語り合ふこともなく、ただなんとなく茫然と暮してゐたが、決して正当に通じ合ふことはあるまい二人の男女の心に、ある懐しい悲しさが通ひ、そして二人は安らかであつたと述べても、それは子供の訪れのセンチメンタルな出来事にはゆかりのない別のことだ。愛し合ふことは騙し合ふことよりもよつぽど悲痛な騙し合ひだ。そのこと自体がもう大変な悲しさではないのか!

 そのこと自体が悲しさだと? 言はしておけばつけあがり思ひきつた神がかりの凄文句をぬかす奴だが、そこで、と貴殿はひらきなほり、そのセンチメンタルな情景を、さてまた何の魂胆あつて書いたんだと仰有《おっしゃ》るか? なんのことだ、そのこと自体の悲しさもないもので、一ぱし大人の口をきいてもそれがもう即ち馬脚の正体で、御神託の「悲しさ」ももはやお里が知れきつてゐる。今更口をつねつてもそのセンチメンタルなペーソスが結局お前の悲しさなんだと、かう仰有る。それが媚薬の言ひ訳けなのか! さては又むごい別れの勇気もない臆病な心の言ひ訳けなのか! かうも仰有る。
 よし分つた! 一々貴殿の言ふ通り私は丹波の神官だ、臆病者だ、助平だ。然し一言言はしてくれ! そのセンチメンタルな情景は、今のさつきふと気紛れに思ひついたまでの話で、小説の種にとんだ苦労をしなかつたら、そんなことをクヨ/\と誰が二六時中考へてなぞゐるものか! とさ。
 女に惚れる、別れる、ふられる、苦しむ、嘆く、そんなことは実はどうでもいいことなんだ。
 惚れるも易い、別れるも易い、また悲しむも易からう。けれど、女に惚れ、女に別れたあとで、さて、何事を改めてやりだせといふのだ? 友よ、何を改めてやりだしたらいい? 言つてみろ! 畜生! 俺がそれを知つてゐたら、誰がくそ一々放埓に結びつけて、こんなセンチメンタルな悲哀なんぞを感じるかといふのだ!



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第六巻第十二号」
   1935(昭和10)年12月1日発行
初出:「作品 第六巻第十二号」
   1935(昭和10)年12月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp
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