そのとき、まだいくらか明るさが残り、西日の沈む彼方にやがて闇へ溶けようとする佐渡が見えた。私が村山臥龍先生に就いて熱弁を弄したのは云ふまでもない。檀一雄が感動したのは論外で、彼は仲秋名月を松島まで出かけて眺めるやうな奇妙に古風な男だから、かういふ千古の美談佳話には全くもろいのである。私が酔つ払つて海辺へ小用に立つと、茶屋の二階の檀一雄が慌てゝ身をのりだして逸《はや》まるべからずと叫んだが、彼は私が酔つたまぎれにザンブと海へとびこみ佐渡へ向つてやがて日本海のモクズと消えると思つたのである。
 大観堂も遊びにきた。別に原稿の催促はせず、いや、したかな、彼は諦めてゐるのである、何しろ天地は戦争だ、一晩酔つ払つて帰つて行つた。私は荒天の日本海で、泳ぎばかりではない、駈けたり、跳んだり、逃げる用意も、穴ボコへ誰よりも早くもぐりこむ用意もとゝのへてゐた。
 昭和十八年の秋から徴用といふ奴が徹底的に始まつてきた。大井広介といふ男が本名は麻生某といつて、彼は元来九州の石炭屋の一族だ。こゝなら徴用が逃れるといふので、井上友一郎が先づ社員となつて九州へ、つゞいて平野謙、荒正人と俄か石炭社員ができたが、どうも坂口安吾といふ呑んだくれだけは社の風紀に関するといつて入れてくれないから仕方がない。尤も私は時々この会社へ宿酔《ふつかよい》をさましに遊びに行つて社長の空椅子にふんぞりかへつて昼寝するものだから、支店長が怖れをなして入社させてくれないので、尤も入社しなくて良かつた。私は日本映画の嘱託になつたが、こゝは一週間に一度、それも十五分だけ顔をだすと、月給をくれるからで、石炭屋はかうはいかないだらう。
 十五分といふのは専務と話をする時間だ。外に仕事はない。そして、その週のニュースと文化映画と、それからよその会社や外国の映画を地階の試写室で見せてもらつて帰つてくるので、そのうちに専務の方もうるさがつて十五分の映画芸術論もやらなくてもいゝやうな顔付だから、これ幸ひと十五分の出勤も省略して、月給日だけ出掛けて行く。尤も、家にゐて脚本を書いた。三ツ書いたが、一つも映画にならなかつた。
 昭和十九年になつた。ラバウルから突如としてサイパンがやられる。私は映画屋のともかく片隅の一員で試写室でニュース映画から、専務の部屋で専務から、いくらか時代の空気を見聞して、それだけが私の時代との接触で、あとの一週間の六日間はたいがい碁会所で碁を打つてゐる。けれども日本はもう駄目だといふことは私のやうな者の目にも先づ明かで、やがて日本は廃墟となる、その中で否応なく立籠らねばならないので、軍部の一ツ文句ではないけれども最悪の事態環境の中で困苦欠乏にたへる精神でなくて私の方の考へでは肉体が、ともかく最後まで生き残りうる条件だと考へた。
 私は二ヶ年つゞけて海へ入りびたつたので、夏になると水へもぐりたくて堪らない。けれどもその年はともかくレッキともしてゐないが会社員であり、すでにサイパンも落ち、日本中の人間みんな学生女生徒まで工場へ住みこんだのだから、この年ばかりは海水浴の人間などは国賊になりかねない時世になつてゐるのだ。もはや新潟の海で泳ぐわけにも行かないから、そこで私は一法を案出した。
 お風呂へ水をみたして、一日に十ぺんぐらゐ水風呂へつかるのだ。もぐる一瞬間は苦しいが、もぐつて五六分ジッとしてゐると、なんとも爽快なもので、これに馴れると、温浴がいやになる。兄の一家が工場疎開でゐなくなり、その留守宅に私が一人で住むことになつて、この水風呂は燃料もいらず、時間もかゝらず、至極いゝ。秋になつた、九月になつた。十月になつた。外気は寒くなつても井戸水の温度は同じことで、もぐつてしまへば、夏の水浴と同じことだ。そのうちに慾がでて、これは面白い、いつまで水風呂にはいれるか、ひとつ冬までつゞけてやらうなぞと考へて、うまくいつたら厳寒をくゞりぬけて来年の夏まで持つて行かうといふ、全く私はヒマ人なので、さうだらう、小さい女の子でも働いてゐるのに、私ばかりは月給日にでかけるだけの勤め人で、然し、あいにく、酒をのむところも、面白い遊び場もなくなつたのだから、ヒマにまかせてつまらぬことを考へる。さすがに一人で考へてゐてもきまりが悪いから、かうして水風呂で身体をきたへておくと、いざとなつて山野に野宿がつゞいても耐久力があると考へた。これは屁理窟ではない。実際私はこの水風呂以来、厳寒に薄着をしても風をひかなくなつたので、今もつてその耐久力はつゞいてゐる。
 私は今も歴々《ありあり》と覚えてゐる。私は十二月六日まで水風呂へはいつた。もう東京の街にはサイパンからのB29[#「29」は縦中横]が爆弾を落しはじめてゐたのである。寒い朝だつた。その前日からくみこんである水風呂へ思ひきつてズボリともぐる。この苦しさの一瞬
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