れたと思うと、
「これは肝臓。お酒はいくら飲んでもよろしい。私の温灸をやれば、一週間で治る。こゝへ当てる」
 と、温灸の場所を弟子に指図した。それから、女房のミズムシを発見すると、
「あゝ、奥さん、ミズムシだね。このミズムシはタチがわるいが、私の温灸なら、三日で治る」
 彼女は女房の年齢や身なりから判断して、私の女房ではなく、酒場の女とか、芸者とか、パンパンという性質の女だろうと見たようであった。
「あなた、奥さんですか。お嬢さんでしょう?」
 つれてきた弟子がトンキョウな声できく。万事がこの伝でカケアイ漫才なのである。別な角度からサグリを入れるワケである。居合わした数人の人たちが笑いだして、
「奥さんだよ、バカな」
 と云っても、半信半疑、むしろ、益々、女房に非ず、と判断したようである。
 弟子は○○式温灸の来歴を書いた書物をとりだして、
「この先生の温灸にかゝれば、万病が治るよ。肝臓でござれ、ミズムシでござれ、肺病なんか、特に三日から一週間で治ってしまうよ。それ以上にきくのが、性病。淋病、梅毒、あんなもの、この先生の温灸じゃ、病気のうちにはいっていないよ」
 ポンポンとタンカをきるこの弟子は、むかしは生長の家の信者であったという。師匠はこの弟子を「火の玉」とよんでいた。もう一人は温灸をやりながらアンマをとる婆さん弟子で、昔は日蓮の信者だという。この方はおとなしかった。
 火の玉は居合わした人々の人柄から判断して、胸の病いと性病患者がいる筈だと判断したようである。万事がこの伝でカケアイ漫才をやりながら、サグリを入れたり、ミズをむけたりするのであった。
 私は私の病気を案じて附き添ってきてくれた高橋正二という商船学校出身のイキのいゝ青年に、
「君はジン臓が悪いそうだから、やってもらえよ」
 高橋はお灸がすきなのである。むかしジン臓を病んだことも事実であった。
「そうですね。じゃア、やってもらいましょう」
 しかし老婆は、見るからに健康児童の高橋を病人とは見なかった。ちょッと背へ手を当てて、
「この人は、こゝにいる人たちの中では第一番に健康。私は診察せなんでも、一目見れば、アヽ、この人はどこが悪い、ピタリとわかる。この人は、こゝに弱点がある。この尾テイ骨、こゝのところへ温灸を当てなさい」
 火の玉は灸をあてながら、
「この先生のお灸も大したものだが、又、足でふむアンマが独特な技法なんだよ。急所急所を足でふみつけて行くんだけれど、それだけで病気が治る人もあるよ」
「あとでサービスしてあげる。サービスしても、せなんでも、一人百円。人助けのためにしていることだから、難病が三日で治った、先生、ありがとう、こう云われゝば、胸がはれる。何百万円つんだとて、気のむかん時には、してはやらぬ。東京の人はひねくれておる。素直なところが欠けておる。これが何より治療にわるい。私の言う通り、される通り、ハイ、ハイ、云うとれば、どんな病気も治してあげる。あんたがどんな偉い人かは知らんが、この婆アに足で頭を踏みつけられた、腹が立つ、帰れ、ハア、帰りましょう、ハイ、サヨナラ、それだけのことじゃ」
 この婆さんの温灸というのは、由来書の通りに云えば、菅平高原から採取している十何種かの高山植物と、動物のホルモン等々をねり合せた黒色のウニのようなものをガーゼの上へ一センチぐらいの厚さにつみ、その上へモグサを山ともりあげて燃すのである。黒色のウニのようなものが多分に液汁を含んでいるから、それが燃えない限り、さのみ熱くはなく、熱くなると、やめるという仕掛けで、終るまでに一時間ぐらいはかゝるかも知れぬ。ここをやると眠くなる、と、頭のテッペンや頸筋へも温灸をやった。
「これをやると赤血球白血球一万ふえる。何よりホルモンが貴重な薬を通じて移るから、これをやると、女が十人あってもまだ足らないというほど精力が溢れる。あんたの頭は毛が薄いが、ハゲは三日で、黒い毛が生えるようになる」
 大きなことばかり云っている。どうせ医者の薬も治しゃせぬ、という病気に憑かれてのことであるから、これも余興、朝晩四日やった。一向に効き目がない。睡む気もさゝないのである。日蓮の婆さんは温灸をやりながらアンマをしてくれるし、師匠の婆さんは温灸が終ってから、足や背中やクビ筋などを足でふむ。いずれもツボをはずれていて、何をやっているのやら、バカバカしいものである。
 朝は日蓮の婆さんが肝臓をやり、夜分は師匠と火の玉が睡るための温灸をやりにくる。日蓮の婆さんは温和で、気違いじみたところや、宣伝めいたところがなく、
「奥さんのミズムシは長くかゝりますよ。タテ孔のできたミズムシはタチが悪いですよ」と正直なことを云ったり、私の肝臓については、
「旦那さん、肝臓にお酒は悪いですよ」
 と、当然なことをマジメに言う。ハッタリ漫才の二人組とは逆なことを言うのである。二人組の言うこと、為すこと正気の沙汰ではないから、
「どうだい。あんた方、催眠術というものを知っているかい。オレがあんた方に催眠術をかける。あんた方がオレに温灸を施す。どっちが利くか試合をやろうじゃないか」
「催眠術って、ねむらせるんですか」
「眠らせもするが、もッと、ハデにやろうじゃないか。別に火や水を使うワケではないが、オレが術を行うだけで、あんた方の全身、火に焼かれているように熱くしたり、凍ったように冷くしたり、してみせようか」
 火の玉も師匠の婆さんも、にわかに面色が改まって、返事をしなかった。
 その翌日、もう来なくともいゝと電話をかけさせたのに、やってきて、今日は今までとは別な特別のネリ薬を持ってきたから、と、女房にしつこく云う。来るなと云えば、ハイ、サヨナラ、どころの話ではない。むりに温灸をもしはじめて用意にかゝった様子であるから、私が隣室から、
「もう来るなと電話で云った筈だよ。なんべん来ても、ハイ、サヨナラ」
 と、ひきとらせた。それでも諦めず、一時間ほどすぎて、日蓮の婆さんを差し向けてよこした。この婆さんの方に私が好意を持っていることを嗅ぎだしたからであろう。
 これほどケンもホロロに追い返さなくとも、いゝようなものだが、なんともカケアイ漫才がうるさくて、見えすいた商売気やハッタリが鼻についてならないのである。ある日は、私を海岸の散歩に誘い、汀をピシャピシャ歩くほど気持のよいものはない、明日夕方の五時に迎えに来るから、と、私が何度イヤだと云っても、二人のカケアイ漫才で、そのシツコサたらない。思うに、海岸には写真屋がたくさん出ているから、そんなものでも撮して宣伝の具にしようとでもいう魂胆だったのかも知れない。そういうシツコサが鼻持ちならなくなったのである。旅先の徒然に、手ごろな慰みだと思っていたが、慰みで終るような軽快なところがなかったのである。
 いつか、尾崎士郎の家で、来合せた人が、「それは士郎さん、ふとるんだったら温灸に限る。けど、こいつは病的なふとりでね」
「そうかね。ほんとに、ふとるかね」
「テキメンにふとる。けど、病的だから、これは止した方がよい」
「ふとるんだったら、病的だろうと、なんだって、ふとりたいね」
 と、尾崎士郎は執拗にふとりたがっていたものである。その日のことを思いだしたから、一週間に四キロふとったのは温灸のせいだろうか、と私は考えたのである。
 伊東へ来て、一週間。七日のうちに、色々なことを、めまぐるしく、やった。しかし、どれとして、ふとるようなことはしていない。即席の効能としては、痩せる性質のことが主であった。

          ★

 私は伊東へ来るようになったソモソモのことを明確には心得ていないのである。数日のことが、明確には、思いだせないのである。私は又、催眠薬をのむようになっていたのかも知れない。
 覚えているのは、伊東行きのきまった前夜、蒲田の南雲さん(井伏鱒二の「本日休診」の主人公三雲博士)この人は産婦人科医で警察医だが、何の病気に拘らず、私の家の全員がお世話になるお医者さんなのである。それから、長畑さん(柿沼内科医局長。私とは年来の知友である)この御二人のお医者さんが見えていられたこと、これが第一の不思議である。偶然だとは思われない。
 私に伊東行きをすゝめたのは南雲さんであった。南雲さんは伊東に親戚の旅館もあり、二人の坊ちゃんが間借りの避暑にきていた。この間借りをたゝんで帰るために伊東へ行くから、一しょに行かないか、しばらく転地して保養した方がよい、という南雲さんの考えだったようである。
 長畑さんも私の家に一泊して、翌日一しょに伊東まで来てくれた。その翌日は大井広介の奥さんが乳癌で手術することになっていた。長畑さんと大井広介とは古くからの親しい友で、私が長畑さんを知るようになったのも、大井広介を通じてゞあった。
 大井夫人の乳癌を診断したのも長畑さん。一刻も早く手術の手配をとりはからったのも長畑さん。その手術は翌日の朝九時半から外科の手術室で行われ、是が非でも立ち合う必要のある長畑さんが、この際どい瀬戸際に伊東くんだりへ出向いてくれたのは、やっぱり私の知らない理由があってのことであろう。
 私の家には、高橋正二と渡辺彰が毎晩泊って、私の発作に備えていてくれたが、翌朝になると、講談社の原田君も泊っていたことが分った。何かゞあったのではないかと私は思う。私の記憶に明かではないが、作品社の八木岡君も泊っていたような気がする。
 伊東へ同行したのは、南雲、長畑両医師に、高橋正二と女房。渡辺、八木岡両君は後日やってきた。
 伊東へきて三日目の朝であった。旅館の縁側で私と話を交していた高橋が、
「先生、だいぶ催眠薬の影響がとれてきたようですね。言葉の発音が、しッかりして来ましたよ」
 催眠薬ときいて、私はドキッとした。私には、その記憶がないのである。
「言葉の発音が、そんなに変テコだったのかい」
「えゝ、ちょッと、呂律《ろれつ》がまわらなかったです。言葉もそうでしたが、足の方が、ひどかったですね。伊東へ来た日、尾崎さんの前の河で、なんべん、ころんだか、覚えてますか」
 その方は覚えていた。しかし、言葉がもつれていたという意識はない。
 大井広介の娘、陽子ちゃんが遊びに来た。女房と多摩川へボートをこぎに行って、一泊した。すると翌朝、大井広介がカンカンに腹を立てゝ陽子ちゃんを迎えに来て、
「ママが乳癌と診断されて一晩泣き通していたじゃないか。手術をするんだぞ」
 と、大変な見幕であったが、愛妻家の大井広介が奥さんの乳癌にテンドウしたのは当然であろう。私は乳癌を癌のうちでは最も治療の容易なものと見くびっていたが、長畑さんの話をきいてみると、なかなかもって一筋縄では行かないシロモノであるらしい。私はお乳へラジュームを当てるか、切るにしても、ちょッと一部分と思っていたが、殆んど胸半分を切るのだそうな。
 大井広介が陽子ちゃんを迎えに来たその日までは、私の記憶がハッキリしているのである。警察の保護室に一晩とめられて、出たこと。その三日目か四日目に、檀一雄の家へ行って、敷地を調査したこと。それまで檀一雄は三夜にわたって、私を訪ねてきて、彼の家の真向いに、私の家をつくるという件を、説服したのである。その日まで、夢にも思わなかったことを、彼の強引な口説によって、にわかに私もその気になってしまったのである。
 この期間に、私の記憶のぼけているのは石川淳が見舞いに来てくれたことだけだ。これは、すでに私がお酒で酔っ払ったところへ、彼が来たせいである。檀一雄のウケウリで、今度は私が石川淳も我々の部落に家をつくることを説服した。
 家などというものを建てたいとも思わなかったし、私の力で家が建つなどとは考えたこともなかったのに、実際家が建つことを信ぜざるを得なかったのである。檀一雄の隣家は真鍋呉夫の家であるが、この殆ど無名な(家を建てた当時に於ては完全な無名であったろう)若い作家が、二百円か三百円の原稿料の、それも半分は不払いの不便を忍んで、食うものも食わずに家を建てた。真鍋君は、一時はまったく栄養失調であったという
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング