てきたようですね。言葉の発音が、しッかりして来ましたよ」
 催眠薬ときいて、私はドキッとした。私には、その記憶がないのである。
「言葉の発音が、そんなに変テコだったのかい」
「えゝ、ちょッと、呂律《ろれつ》がまわらなかったです。言葉もそうでしたが、足の方が、ひどかったですね。伊東へ来た日、尾崎さんの前の河で、なんべん、ころんだか、覚えてますか」
 その方は覚えていた。しかし、言葉がもつれていたという意識はない。
 大井広介の娘、陽子ちゃんが遊びに来た。女房と多摩川へボートをこぎに行って、一泊した。すると翌朝、大井広介がカンカンに腹を立てゝ陽子ちゃんを迎えに来て、
「ママが乳癌と診断されて一晩泣き通していたじゃないか。手術をするんだぞ」
 と、大変な見幕であったが、愛妻家の大井広介が奥さんの乳癌にテンドウしたのは当然であろう。私は乳癌を癌のうちでは最も治療の容易なものと見くびっていたが、長畑さんの話をきいてみると、なかなかもって一筋縄では行かないシロモノであるらしい。私はお乳へラジュームを当てるか、切るにしても、ちょッと一部分と思っていたが、殆んど胸半分を切るのだそうな。
 大井広介が陽
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