いっていたが、私が病状を決定的に悪化させたのは、この旅行に於いてであった。
私は東京で京都育ちの何人かを助手に雇えばよかったのである。ところが、当時は、そう考えてはいなかった。なまじいに助手を雇うと、仕事は容易であるが、助手の個性に左右されて、目的を逸しはしないか、と考えたからである。私は京都の標準語を習うことが目的でもないが、特に私流にアンバイして、作中の各人物に個性的な言葉を与えなければならないからであった。
私は助手を雇わずに、京都のまんなかへ潜在して、出来るかぎり多くの人物と語り合い、多様な言葉を観察して、その中から、私流に幾つかの言葉の個性を発明しようと考えた。そして私は京都へ向った。そして、この旅行が失敗に終った。言葉の発明に失敗したわけではないが、最も単純に、体力的に敗北してしまったのである。今年の元日以来スチームが通うようになったが、昨年の暮には、東海道線にはスチームが通じていなかった。車中の寒気にふるえ、絶え間なく流れでる洟汁と、こみあげる吐き気に苦しんだ。京都へついた私は、まったく船酔いに似て、寒気と吐き気に苦悶し、半死半生のていであった。京都の旅館へついて、そのまゝ正月の一週間をねこんでしまった。体力的に消耗しきって、落武者の如く東京へひきあげたが、この旅行への期待と希望が大きかっただけに、私の落胆は甚大であった。しかし私は勇気を落さず、不自由を忍び、京都弁につかえながら、第二章を書きすゝめた。だが、私の頭は、もう、うまく廻転してくれなかった。覚醒剤とアドルムを過度に服用しはじめたのは、この時からであった。東大神経科へ入院したのは二月十七八日ごろのことで、そのときは、喋ることも、歩行もできず、たゞ幻視と幻聴に苦しみつづけていた。すでに歩行も不可能であるから、兇暴期もすぎていたが、たゞ、私の忘れていないことは、一度も自殺を意志しなかったこと、たゞ生きること、そして、仕事の完成だけを考え、何よりも自殺の発作を怖れつゞけたことであった。千谷さんから、二ヶ月で必ず治してみせます、と云われたときに、私はたゞ恢復しうる感動で、胸がいっぱいであった。
こうして、四月二十日ごろ恢復退院したが、千谷さんの忠告にも拘らず、生活費を得るために、多少の仕事をせざるを得ない。どうせ仕事をするくらいなら、私はむしろ、この小説に没入した方がよかった、と、今は思う。その方が、胸の虚しさも晴れ、むしろ精神の安定を得ることができたであろうと思う。私はしかし、なるべく疲れずに、仕事をすることを考えた。そういう中途半端なものが、芸術の世界で許されるものではなく、私はテキメンに自らの空虚さに自滅したようである。
千谷さんから呉々《くれぐれ》も云われたように、当時の私はまだ恢復が充分ではなかったところへ、暑気に当てられ、決して多くの催眠薬を服用したとは思わぬうちに、春の病状をくりかえしていた。私は春の七八分の一程度の服用量だからと安心しているうちに、すでに中毒症状に陥ちこんでいたのであった。
まえに田中英光君が同じ中毒で愛人を刺した事件があったところへ、又、私の中毒再発であるから、ジャーナリズムが呆れたのはムリがない。意志薄弱とか、狂気の文学などと二三の批評を新聞でよんだが、果して、そういうものだろうか、私は抗議も言い訳もしないが、たゞ私の小説を読んで欲しいと言うだけである。
新潮に連載された「にっぽん物語」を読んでみたまえ。又、これから某誌に連載されるその続稿をよんでくれたまえ。この小説は、私が鬱病(精神病の一種であるが)と闘い、消耗する精神や体力の火を掻き起しつゝ、争い、そして、書きつゞけた小説で、すでに歩行も、喋ることも不可能な時に至っても、尚、精神病院の鉄格子の中でふるえる手で、時には自分にも得体の知れない文字によって書き綴りつゞけた小説なのだ。幻視と幻聴の中で書き綴った小説なのである。
これ以上に健康な小説が、有ろうとも思われぬほど、健全ではないか。私の精神や肉体は異常であったかも知れないが、私の仕事は健全そのものであり、いさゝかも異常なところは見られない。私はたゞ、消耗する体力と闘いながら、一途に人間を追及しただけで、その人間像に異常なところが在るとすれば、それは私が異常なためではなくて、あらゆる人間が本来異常なものであるためだ。
私の精神が異常であるのは、私の作品が健全のせいだ、と言いきれないこともない。私の健康さの全部のものを作品に捧げつくして、その残りカスが私というグウタラな現身《うつしみ》なのだよ、と誇示し得ないこともないのである。諸氏よ、精神異常者の文学だの、意志薄弱の文学などという前に、私の「にっぽん物語」を読んでみたまえ。そして、それから、君の言いたいことを言ってくれたまえ。(なお「にっぽん物語」という題名
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