傑は宇佐美の奥へ白帆の姿が消え去るほど流されて、救助艇がでた始末である。同乗の檀一雄は豪傑が風と闘う苦心を知らず、救助艇に向って、
「あなた、なして[#「なして」に傍点]助けに来たですか」
 と食ってかゝったそうである。
 この時刻になると、伊東の海にはイワシ船が勢ぞろいをし、見張り船に誘導されて、所定の位置へ走るもの、待機のもの、明治初年の海戦を見るようである。ランチに乗って、私たちも見物にでかけた。イワシ網をしめてくると、これを狙って大型の魚があつまる。これを擬似バリで釣りあげる。豪快なものである。
 いちじるしい不眠症をのぞいては、私は益々健康児らしく、ふとる一方のようである。
 今もって私に分らないのは、伊東へ出発の前夜、南雲さんと長畑さんがなぜ来合わせていたか、八木岡君と原田君が、なぜ泊っていたか、いったい私は何をしたか、ということであった。
 私は、大井広介が陽子ちゃんを迎えに来て帰った翌日からの記憶がない。私は催眠薬をのんだ記憶もないのである。こういうことは、いまだに例のないことで、それから伊東へ出発する日の前夜まで、私の記憶が失われているのである。家族のものも語らない。私は酔っ払ったあげく、多量の粉末催眠薬をのんだのかも知れない。しかし私に自殺の意志など毛頭ある筈はないのである。むしろ、檀君と石神井《しゃくじい》部落を計画して以来、私は自分の生活の健康維持ということについて、いちじるしく希望を持つようになっていた。
 このようなことが、なぜ起るか、ということについて、人はあるいはこれを鬱病というかも知れない。私は単純に不眠のせいだ、と答える以外に法がない。
 伊東に来て以来、私は親しい友人たちの愛情にかこまれて、これ以上には、どう仕様もないほどの健康児童の生活を送り、一週間に四キロもふとっているのである。しかし、足りないことが、たゞ一つある。それは現在、仕事をしていないということである。私は東京を去るとき、二人の医師のはからざる出現に困惑し、意識の欠如に困惑し、たゞヤミクモに転地を急いで、仕事のことなどは念頭になく、ふだんの身なりに下駄を突ッかけて、人々にとりかこまれて、家をとびだして来たのであった。
 私はもはや少年ではないのである。一日海で遊びしれて、帰るを忘れるという気持はない。私から仕事をとり去れば、まったく、何も残らなくなってしまうだけの話だ。
 私はとりとめもなく幻想的な回想に沈んでいたが、ふと二十一歳の闘病生活を思いだして、はじめて私の精神上の疾患は、私自身が治す以外に法がないと気がついたのだ。私は不眠を怖れて仕事をためらい、最良のコンディションを待っていたが、これほど徒労のことはない。二十一歳の私はヤミクモに辞書をひき、文法書にかじりついて、あの夥しい妄想を退散せしめたではないか。不眠ならば不眠を怖れるには及ばない。ねむたさに両の目が明かなくなるまで、仕事をつゞけて、ねむたい時に、その場で寝てしまえばいゝのである。あのときの夥しい妄想や、聴力が一時的に失われたことや、運動神経まで弛緩してしまったことに比較すれば、現在の私は、はるかに健康と云える。肉体は医者にゆだねる以外に仕方がないが、精神だけは、いかなる時も自分が管理しなければならないものである。私はふと、この理に気付いたのであった。
 人間は意志することによって、又、意志するものゝ中に、自分の姿を見出す以外に法がないと云えるであろう。温灸の婆さんのカケアイ漫才の不潔さに堪えられなかった私は、いさゝか寛仁大度を失し、ユーモアを失していたかも知れぬが、見様によれば、健全でないこともない。狭量ではあっても、不健全ではないようである。
 私は私の精神を、医師や薬品にゆだねたことが失敗であった。意志にゆだぬべきであったのである。
 隣室では、檀君も徹夜の仕事をかたづけて、待っていた編輯者が、いま帰って行くところである。昨夜おそく、女房が東京から「にっぽん物語」の未定稿を持って帰ってきた。私は常に両の眼があかなくなるまで、この作品を書きつゞけるつもりである。私はもはや、いさゝかも不眠を怖れてはいない。

[#ここから3字下げ]
附記 本稿はもと別の雑誌に掲載の予定であったが、あまり多く「にっぽん物語」について語りすぎたので、群像へ廻すことにした。つまり群像は、十一月号から、私が「にっぽん物語」の続稿を掲載する筈の雑誌なのである。したがって、「まえがき」の部分で、某誌とあるのは、実は「群像」自体をさすことになるのであるが、私は故意に訂正しないことにした。
 この小文が、私の一生の記念的な転機となってくれゝば幸いであるが、私はそれを信じて疑わないものである。尚、続稿掲載に当っては、「にっぽん物語」の題名を変更するつもりであるが、今のところは、適当な題が見当ら
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング