週間に四キロふとったのは温灸のせいだろうか、と私は考えたのである。
伊東へ来て、一週間。七日のうちに、色々なことを、めまぐるしく、やった。しかし、どれとして、ふとるようなことはしていない。即席の効能としては、痩せる性質のことが主であった。
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私は伊東へ来るようになったソモソモのことを明確には心得ていないのである。数日のことが、明確には、思いだせないのである。私は又、催眠薬をのむようになっていたのかも知れない。
覚えているのは、伊東行きのきまった前夜、蒲田の南雲さん(井伏鱒二の「本日休診」の主人公三雲博士)この人は産婦人科医で警察医だが、何の病気に拘らず、私の家の全員がお世話になるお医者さんなのである。それから、長畑さん(柿沼内科医局長。私とは年来の知友である)この御二人のお医者さんが見えていられたこと、これが第一の不思議である。偶然だとは思われない。
私に伊東行きをすゝめたのは南雲さんであった。南雲さんは伊東に親戚の旅館もあり、二人の坊ちゃんが間借りの避暑にきていた。この間借りをたゝんで帰るために伊東へ行くから、一しょに行かないか、しばらく転地して保養した方がよい、という南雲さんの考えだったようである。
長畑さんも私の家に一泊して、翌日一しょに伊東まで来てくれた。その翌日は大井広介の奥さんが乳癌で手術することになっていた。長畑さんと大井広介とは古くからの親しい友で、私が長畑さんを知るようになったのも、大井広介を通じてゞあった。
大井夫人の乳癌を診断したのも長畑さん。一刻も早く手術の手配をとりはからったのも長畑さん。その手術は翌日の朝九時半から外科の手術室で行われ、是が非でも立ち合う必要のある長畑さんが、この際どい瀬戸際に伊東くんだりへ出向いてくれたのは、やっぱり私の知らない理由があってのことであろう。
私の家には、高橋正二と渡辺彰が毎晩泊って、私の発作に備えていてくれたが、翌朝になると、講談社の原田君も泊っていたことが分った。何かゞあったのではないかと私は思う。私の記憶に明かではないが、作品社の八木岡君も泊っていたような気がする。
伊東へ同行したのは、南雲、長畑両医師に、高橋正二と女房。渡辺、八木岡両君は後日やってきた。
伊東へきて三日目の朝であった。旅館の縁側で私と話を交していた高橋が、
「先生、だいぶ催眠薬の影響がとれてきたようですね。言葉の発音が、しッかりして来ましたよ」
催眠薬ときいて、私はドキッとした。私には、その記憶がないのである。
「言葉の発音が、そんなに変テコだったのかい」
「えゝ、ちょッと、呂律《ろれつ》がまわらなかったです。言葉もそうでしたが、足の方が、ひどかったですね。伊東へ来た日、尾崎さんの前の河で、なんべん、ころんだか、覚えてますか」
その方は覚えていた。しかし、言葉がもつれていたという意識はない。
大井広介の娘、陽子ちゃんが遊びに来た。女房と多摩川へボートをこぎに行って、一泊した。すると翌朝、大井広介がカンカンに腹を立てゝ陽子ちゃんを迎えに来て、
「ママが乳癌と診断されて一晩泣き通していたじゃないか。手術をするんだぞ」
と、大変な見幕であったが、愛妻家の大井広介が奥さんの乳癌にテンドウしたのは当然であろう。私は乳癌を癌のうちでは最も治療の容易なものと見くびっていたが、長畑さんの話をきいてみると、なかなかもって一筋縄では行かないシロモノであるらしい。私はお乳へラジュームを当てるか、切るにしても、ちょッと一部分と思っていたが、殆んど胸半分を切るのだそうな。
大井広介が陽子ちゃんを迎えに来たその日までは、私の記憶がハッキリしているのである。警察の保護室に一晩とめられて、出たこと。その三日目か四日目に、檀一雄の家へ行って、敷地を調査したこと。それまで檀一雄は三夜にわたって、私を訪ねてきて、彼の家の真向いに、私の家をつくるという件を、説服したのである。その日まで、夢にも思わなかったことを、彼の強引な口説によって、にわかに私もその気になってしまったのである。
この期間に、私の記憶のぼけているのは石川淳が見舞いに来てくれたことだけだ。これは、すでに私がお酒で酔っ払ったところへ、彼が来たせいである。檀一雄のウケウリで、今度は私が石川淳も我々の部落に家をつくることを説服した。
家などというものを建てたいとも思わなかったし、私の力で家が建つなどとは考えたこともなかったのに、実際家が建つことを信ぜざるを得なかったのである。檀一雄の隣家は真鍋呉夫の家であるが、この殆ど無名な(家を建てた当時に於ては完全な無名であったろう)若い作家が、二百円か三百円の原稿料の、それも半分は不払いの不便を忍んで、食うものも食わずに家を建てた。真鍋君は、一時はまったく栄養失調であったという
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