の眼前にひらかれてくるだらう。それはな、世の中がこのまゝであつてはならぬといふことだ。旅にでゝ、異教徒どもの世の中、奉教人の許されぬ世の中が、どのやうな汚れにみちみちてゐるか、良く見てくるがよい。世の中がこのまゝであつてはならぬといふ御主の声がお前の耳にひゞくであらう。その日その時を忘れるな。そしてそれからお前が何を考へるか、お前の口からきく日まで、私はそなたの旅の帰りを何よりの楽しみに待ちかねてゐよう。さア、人々が待つてゐる。お前はでかけて来るがよい」
 次兵衛の胸ははれてゐた。彼は美しい少年を見てゐるうちは安心しきつてゐられたし、やがては彼のもとに戻り、同じ運命を辿るであらうといふことを信じることもできるのだ。夜明けの冷めたさが彼の壮烈な活動力を気持よくなでゝゐた。するともはや彼は瞬時もとゞまりがたい活気のために幸福でいつぱいだつた。この町、あの村に残して行つた信徒たち。もし彼らが殉教をまぬかれて生きてゐたら、苦しみを分ち、新しい勇気を与へるために、次兵衛は希望の豊かさに満足した。彼の三十四の肉体は流浪の生活に衰へを見せぬばかりか、その感情は二十の若さから全く老けてゐなかつた。あゝ、二年ぶりで見るなつかしい港、四郎に別れて丘の藪をかきわけながら、口笛を吹き、枯れそめた木々に呼びかけてゐた。金鍔次兵衛神父様の御帰還だ。さア、新しい闘争が、この丘で、また、始まるぜ。忘れ得ぬ捕吏の顔まで、友達のやうに思はれるのだ。
 一年の歳月が流れ、再び秋が訪れて、商品を売りつくした四郎父子はやうやく帰途についてゐた。
 異郷の空で日毎に見知らぬ顧客に対して、歓心をひき、計算し、秘密な心理の勝敗を意識しつゞけた四郎は、急速に特異な発育をつゞけてゐた。医者が患者を見るときの物質的な冷めたさが、人に対する彼の心の底面積になつてゐた。それが全て人々の賞讃から得た果実であり、人の世の平凡、常識、低俗に、虚無的な退屈を負ふた。すでに彼は十四にして断崖に孤絶し、足もとの奈落を冷然と見て、遠いふるさとに呼びかけてゐた。絶対の王者。呼べばすでに答へがきこえる。彼は聖処女の山師であつた。
 彼らは大垣の宿をでゝ、南宮山を眺めながら関ヶ原を歩いてゐた。たゞこの古戦場を見るために帰りの旅に陸路を選んだ甚兵衛は感無量であつた。小西行長の祐筆《ゆうひつ》の家に生れた彼は幼少のため関ヶ原の合戦に参加せず、故郷
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