ふるさとに寄する讃歌
夢の総量は空気であった
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)茱萸《グミ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)螽※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]《きりぎりす》が
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私は蒼空を見た。蒼空は私に泌みた。私は瑠璃色の波に噎ぶ。私は蒼空の中を泳いだ。そして私は、もはや透明な波でしかなかった。私は磯の音を脊髄にきいた。単調なリズムは、其処から、鈍い蠕動を空へ撒いた。
私は窶れていた。夏の太陽は狂暴な奔流で鋭く私を刺し貫いた。その度に私の身体は、だらしなく砂の中へ舞い落ちる靄のようであった。私は、私の持つ抵抗力を、もはや意識することがなかった。そして私は、強烈な熱である光の奔流を、私の胎内に、それが私の肉であるように感じていた。
白い燈台があった。三角のシャッポを被っていた。ピカピカの海へ白日の夢を流していた。古い思い出の匂がした。佐渡通いの船が一塊の煙を空へ落した。海岸には高い砂丘がつづいていた。冬にシベリヤの風を防ぐために、砂丘の腹は茱萸《グミ》藪だった。日盛りに、螽※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]《きりぎりす》が酔いどれていた。頂上から町の方へは、蝉の鳴き泌む松林が頭をゆすぶって流れた。私は茱萸藪の中に佇んでいた。
その頃、私は、恰度砂丘の望楼に似ていた。四方に展かれた望楼の窓から、風景が――色彩が、匂が、音が、流れてきた。私は疲れていた。私の中に私がなかった。私はものを考えなかった。風景が窓を流れすぎるとき、それらの風景が私自身であった。望楼の窓から、私は私を運んだ。私の中に季節が育った。私は一切を風景に換算していた。そして、私が私自身を考えた時、私も亦、窓を流れた一つの風景にすぎなかった。古く遠い匂がした。しきりに母を呼ぶ声がした。
私は、求めることに、疲れていた。私は長い間ものを求めた。そのように、私の疲れも古かった。私の疲れは、生きることにも堪え難いほど、私の身体を損ねていた。私は、ときどき、私の身体がもはや何処にも見当らぬように感じていた。そして、取り残された私のために、淡い困惑を浮べた。私の疲れは――たとえば、茱萸の枝に、私は一匹の昆虫を眺めているのであった。昆虫は透明な羽をかぼそく震わせていた。私は私の身体が、また透明な波であることに気付いていた。それは靄よりも軽い明暗でしかなかった。昆虫の羽の影が、私の身体にあわく映ってゆれた。赤熱した空気に、草のいきれが澱んでいた。昆虫は飛び去った。そしてその煽りが鋭く私の心臓を搏撃したように感じられた。太陽のなかへ落下する愉快な眩暈に、私は酔うことを好んだ。
長い間、私はいろいろのものを求めた。何一つ手に握ることができなかった。そして何物も掴まぬうちに、もはや求めるものがなくなっていた。私は悲しかった。しかし、悲しさを掴むためにも、また私は失敗した。悲しみにも、また実感が乏しかった。私は漠然と、拡がりゆく空しさのみを感じつづけた。涯もない空しさの中に、赤い太陽が登り、それが落ちて、夜を運んだ。そういう日が、毎日つづいた。
何か求めるものはないか?
私は探した。いたずらに、熱狂する自分の体臭を感ずるばかりだった。私は思い出を掘り返した。そして或日、思い出の一番奥にたたみこまれた、埃まみれな一つの面影を探り当てた。それは一人の少女だった。それは私の故郷に住んでいた。辛うじて、一、二度、言葉を交した記憶があった。私が故郷を去って以来――十年近く、会うことがなかった。今は生死も分らなかった。而し、掘り出した埃まみれな面影は、不思議に生き生きと息づいていた。日数えて、私は、その面影の生気と、私自身の生気とに区別がつかなくなっていた。私は追われるように旅に出た。煤煙に、頬がくろずんでいた。
私はふるさとに帰りついた。
ふるさとに、私の生家はもう無かった。私は、煤けほうけた旅籠屋の西日にくすんだ四畳半へ、四五冊の古雑誌と催眠薬の風呂敷包みを投げ落した。
雪国の陰鬱な軒に、あまり明るい空が、無気力や、辛抱強さや、ものうさを、強調した。鉛色の雪空が、街のどの片隅にも潜んでいた。街に浮薄な色情が流れた。三面記事が木綿の盛装をこらして……。私はすでに、エトランジェであった。気候にも、風俗にも、人間にも、そして感情にも。私は、暑気の中に懐手して、めあてなく街を歩いた。額に、窓の開く音が、かすかに、そして爽やかに、絶え間なくきこえていた。その音は、街路樹の睡った、しずかに展ける一つの路を私に暗示した。それは如何なる寂しさにも、私に路を歩ませる力を与えた。私は疑い深い目で、行き交う全ての女を見た。
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