へ行った。

 港に六千噸の貨物船がはいった。耳寄りなニュースに、港の隆盛を町の人々が噂した。私は裏町に、油くさい庖厨の香を嗅いだ。また裏町に、開け放された格子窓から、脂粉の匂に噎んでいた。湯垢の香に私はしみた。そして太陽を仰いだ。しきりに帰心の陰が揺れた。
 東京の空がみえた。置き忘れてきた私の影が、東京の雑沓に揉まれ、蹂みしだかれ、粉砕されて喘えいでいた。限りないその傷に、無言の影がふくれ顔をした。私は其処へ戻ろうと思った。無言の影に言葉を与え、無数の傷に血を与えようと思った。虚偽の泪を流す暇はもう私には与えられない。全てが切実に切迫していた。私は生き生きと悲しもう。私は塋墳へ帰らなければならない。と。

 私達はホテルの楼上に訣別の食卓をかこんだ。街の灯が次第にふえた。私は劇しくイライラしていた。姉は私の気勢に呑まれて沈黙した。私達は停車場へ行った。私達は退屈していた。汽車がうごいた。私は興奮した。夢中に帽子を振った。
 別れのみ、にがかった。



底本:「坂口安吾選集 第三巻小説3」講談社
   1982(昭和57)年2月12日第1刷発行
底本の親本:「黒谷村」銀座出版社
初出:「青い馬」
   1931(昭和6)年5月1日号
入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正:小林繁雄
2006年9月16日作成
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