発生を心痛せられるような檀家もあって、そのような時には導師たる自分の後に必要以上に多人数の従僧を何列かに侍らせてトーチカをつくって防音する。彼の宗旨は幸いに木魚カネその他楽器を多く用いて読経するから多人数の読経の場合は楽の音とコーラスによって完全な防音を行うことができる。この必要以上の坊主の入費は彼自身がもたなければならない。また、告別式とちがってお通夜の読経は多人数で乗りこむわけにいかないし、楽器も木魚ぐらいしか用いられず、ナマのホトケも泣きの涙の人々も彼に寄り添うように接近しているのだから、防音の手段は望みがたい。したがって、よほど好意的な檀家以外は代理でお通夜しなければならないから、この場合にはミイリがへる。モノイリがかさんでミイリがへるのだから心境円熟にいたるまでには長の悲しい年月があったわけだ。
 春山唐七家の老母は甚だ彼に好意的であった。この隠居の亡くなった主人の命日の日、読経がすんで食事をいただいたあとで、隠居の病室へよばれた。隠居は七年ごし中風でねていたのである。彼が隠居の枕元へ坐ると、
「…………」
 隠居が何か云った。この隠居は顔も半分ひきつッていて、その言葉がよく聞きとれない。彼が耳を顔へ近づけてきき直すと、
「私ももう長いことはございませんのでね。近々お奈良さまにお経もオナラもあげていただくようになりますよ」
 隠居はこう云ったのである。枕元の一方に坐していた春山唐七にはそれを聞きわけることができたが、彼は隠居の言葉には馴れていなかったから、またしても聞きのがしてしまった。それで、
「ハイ。御隠居さま。まことにすみません。もう一度きかせて下さい」
 と云った。そこで隠居は大きな声でハッキリ云うための用意として胸に手を合わせて肩で息をして力をノドにこめようとした時に、お奈良さまはその方面に全力集中して聞き耳たてたばかりに例の戸締りが完全に開放されたらしく、実に実に大きなオナラをたれた。よほど戸締りが開放されきったらしく、風足は延びに延びて港の霧笛のように長く鳴った。
 すると隠居は胸に合わせた手をモジャ/\とすりうごかして胸をこするようにした。そして口をむすんでポッカリ目玉をあいたが、その次には目玉を閉じて口の方をあいたのである。それが最期であった。隠居は息をひきとったのである。
「御隠居さま。御隠居さま。もし、御隠居さま」
 連呼して隠居の返
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