おみな
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)為体《えたい》

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(例)諸※[#二の字点、1−2−22]の
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 母。――為体《えたい》の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。
 私はいつも言いきる用意ができているが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だってありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかった。
 九つくらいの小さい小学生のころであったが、突然私は出刃庖丁をふりあげて、家族のうち誰か一人殺すつもりで追いまわしていた。原因はもう忘れてしまった。勿論、追いまわしながら泣いていたよ。せつなかったんだ。兄弟は算を乱して逃げ散ったが、「あの女」だけが逃げなかった。刺さない私を見抜いているように、全く私をみくびって憎々しげに突っ立っていたっけ。私は、俺だってお前が刺せるんだぞ! と思っただけで、それから、俺の刺したかったのは此奴一人だったんだと激しい真実がふと分りかけた気がしただけで、刺す力が一時に凍ったように失われていた。あの女の腹の前で出刃庖丁をふりかざしたまま私は化石してしまったのだ。その時の私の恰好が小鬼の姿にそっくりだったと憎らしげに人に語る母であったが、私に言わせれば、ふりかざした出刃庖丁の前に突ったった母の姿は、様々な絵本の中でいちばん厭な妖婆の姿にまぎれもない妖怪じみたものであったと、時々思い出して悪感[#「感」に「ママ」の注記]がしたよ。三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだっぴろい誰もいない部屋のまんなかに私がいる。母の恐ろしい気配が襖の向う側に煙のようにむれているのが感じられて、私は石になったあげく気が狂《ふ》れそうな恐怖の中にいる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきずり、窖のような物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真っ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたろうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。
 あれほど残酷に私一人をいじめぬくためには、よほど重大な原因があったのだろう。私の生れた時は難産
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