先に荷車が置いてあるから、包んでくれなくともよいと云いながら、二十ドルのニセ札を女店員に手渡した。
 幸といおうか、不幸といおうか、その女店員がニセ札を受け取ったとき、彼女の指先はまだ濡れていた。彼女は“能筆ジム”に釣銭を渡したが、相手が店から姿を消してまもなくインクが自分の指先についていることに気づいた。一瞬このインクのしみが何からついたものかと戸惑った。そのとき彼女は、反射的に自分があつかった二十ドル紙幣を見つめていた。なるほどその札の通し番号は見事に書かれてはいるが、ほんの少しよごれているようだ。好奇心が首をもたげた。唇の上でもう一度指を濡らして、札の上のインクをこすってみた。まさに彼女の直感の通りであった。自分がニセ札をつかまされたことに気づいて、主人を呼び、事の次第を説明した。ウェリマンとその女店員は入口から飛び出してみたが、もうニンゲルの姿はなく、三番街にも荷車など勿論見あたらなかった。ニンゲルは見事消え失せたのだ。そのころ彼は、ニュー・ジャージー通いの渡船の着くコートランド・ストリート行の鉄道馬車に乗り込んでいた。しかし、彼のニセ札が見破られたことも、彼がニセ札使としてつけられていることも、警察に知らされていることも、とんと御存知なかった。
 コートランド・ストリートに着くと彼は、一軒の酒場に入って、ビールを一杯と葉巻受一本を小銭で支払った。それから、二杯目のビールを受け取って、釣銭なしの支払をすませた。そこで彼はそのビールを立のみしながら入口のドアーの方へ歩き出した。半分程も行った処で、丁度何かを思い出したように、もとの席に引き返した。
「あゝ、わしはニュー・ジャージーのわしの農場の雇人に支払う小銭を作ってくることを忘れた。もう銀行は閉っている。あんたんとこで、五十ドル札を小まかくしてくれんかね?」と、ニンゲルは主人に話しかけた。
 ニュー・ジャージーの農夫たちは、この土地のこの種の店にとっては上得意なので、主人は「札で四十ドル、銀貨で十ドルなら両替いたしましょう」と云いながら、バアーの上に十ドル札四枚を並べ、十ドルを銀貨でニンゲルに手渡たした。しかし、この時“能筆ジム”はニセ札使として全くまずいヘマ[#「ヘマ」に傍点]をやらかしてしまった。彼は両替の金を勘定しなかった。独逸人農夫の注意深さをよく知っている酒場の主人は、奇異に感じた。彼は、札をかき寄
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