摸し、幽玄や、風流や、粋をさぐったものからは生れてこないにきまっている。もっと時代的な俗悪なもの、実用的なものが、後日において、法隆寺と同じ位置に到達するものなのだ。
だから、夢声のような一流の芸人が、映画説明という俗悪ではあるが、最も切実に時代的であった不粋なものから生れて育ってきたのは理にかなっているが、落語のように、すでに時代とかけ離れたものから、一流のものが現れてくる見込みはない。歌笑以上の新人は現れるかも知れないが、せいぜい二流どまりで、それ以上ではありえないだろう。それ以上でありうる素質の持主は、かならず、もっと俗悪な、時代的なものへ飛びこんで生きようとするにきまっているから。
現代においては俗悪な、そして煽情的な実用品にすぎないジャズやブギウギが、やがて古典となって、モオツァルトやショパンのメニュエットやワルツと同じ位置を占めるようになるものなのだ。いかなる典雅な古典も、それが過去において真に生きていた時には、俗悪な実用品にすぎなかったのである。
落語の新人に一流の芸術をのぞむのはムリであるし、又、落語の古典的な伝承者に一流の芸術をのぞむのはなおさらムリだ。時代に生
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