フ中に投ずる場合に、彼らの手はより重くなるだろう。おそらく彼らは不幸にも、死刑判決の早急なしかたのうちに責め苦のゆるやかな連続が含まれてることを、かつて考えたことがなかったろう。彼らが除き去るその男のうちには、一つの精神がある、生命に望みをかける一つの精神があり、死を予期していない一つの魂がある、というこの痛切な観念に、彼らはただ目をすえたことでもあるだろうか。いや。彼らはただ三角な肉切り庖丁の垂直な落下をその中に見てとるだけであって、受刑人にとってはその前にも後にも何物もないと思ってるにちがいない。
これらの数ページはそういう彼らの謬見《びゅうけん》を醒ますだろう。おそらくいつかは世に出版されて、人の精神の苦悶のほうへ彼らの精神をしばし向けさせるだろう。人の精神の苦悶こそ彼らがすこしも思い浮かべないことである。彼らはほとんど肉体を苦しめずに人を殺すことができるというのを得意にしている。が、まさしくそれが問題なのだ。精神的苦痛に比べては肉体的苦痛がなんであろう。今のようにしてできてる法律こそ、恐るべきまた憐れむべきものである。やがていつかは、そしておそらく、一人のみじめな男の最後の告白たるこの手記もその一助となって……。
せめて、私の死後、これらの紙片が泥にまみれて監獄の中庭で風になぶらるることさえなければ、あるいは、看守のガラス戸の破れめに点々と貼られて雨に朽《く》ちることさえなければ……。
七
私がここに書いてるものが他日他の人々の役に立たんこと、判決しようとする判事を引き止めんこと、無罪にしろ有罪にしろすべて不幸な人々を私が受けたこの苦悩から救わんこと、そう願うのはなぜか、何のためになるか、何の関係があるか。私の首が切れてしまった後で他の人々の首が切られることが私に何のかかわりがあるか。右のようなばかげたことを私は本当に考えうるのか。自分がそれにのぼった後で死刑台を打ち倒す! それがいったい私に何をもたらしてくれるものか。
そうだ、太陽、春、花の咲き満ちた野、早朝目覚むる小鳥、雲、樹木、自然、自由、生命、すべてそれらはもう私のものではない。
ああ、私自身をこそ救わなければならないのだ。――それができないというのは、明日にもあるいはおそらく今日にも死ななければならないというのは、そうしたものだというのは、まさしく本当なのか。おお、それ
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