夜であった。生きたる恐ろしい闇夜であった。いかにしてその奥底を探ることをなし得よう。闇に向かって問いを発するのは恐怖すべきことである。いかなる答えが出てくるかわかったものではない。そのために曙《あけぼの》までも永久に暗くされるかも知れない。
 そういう精神状態にあったから、以来その男がコゼットと何らかの接触を保つということは、マリユスにとっては思うもたえ難いことだった。自ら躊躇してなし得なかったその恐ろしい問い、動かすべからざる決定的な解決が出て来るかも知れなかったその恐ろしい問い、それをあえて発しなかったことを、彼は今となってほとんど自ら責めた。彼は自分があまりに善良で、あまりにおだやかで、更に言えば、あまりに弱かったのを知った。その弱さのために彼は、不注意な譲歩をするに至ったのである。彼はその感傷に乗ぜられた。彼は誤った。きっぱりと簡単にジャン・ヴァルジャンを拒絶すべきであった。ジャン・ヴァルジャンはむしろ火に与うべき部分であって、彼はそれを切り捨てて自分の家を火災から免れさせるべきであった。彼は自ら自分を恨み、また自分の耳をふさぎ目をふさいで巻き込んでいったその情緒の突然の旋風を恨んだ。彼は自分自身に不満だった。
 今はいかにしたらいいか。ジャン・ヴァルジャンの訪問は彼のはなはだしくいとうところだった。あの男を家に入れて何の役に立つか。どうしたらいいか。そこまで考えてきて彼は迷った。彼はそれ以上掘り下げることを欲せず、それ以上深く考慮することを欲しなかった。彼は自ら自分を測ることを欲しなかった。彼は約束を与えていた、言わるるままに約束してしまった。ジャン・ヴァルジャンは彼の誓約を得ていた。徒刑囚に対しても、否徒刑囚に対してであるからなおさら、約束は守らなければならない。とは言え彼の第一の義務はコゼットに対するものだった。要するに彼は、何よりもまず嫌悪《けんお》の念に揺すられた。
 マリユスは、頭の中にあるあらゆる観念を一々取り上げ、そのたびごとに心を動かされながら、雑然たる全体のことを持ちあぐんだ。その結果深い惑乱に陥った。またその惑乱をコゼットに隠すのは容易なことではなかった。しかし愛は一つの才能である。マリユスはついにそれを隠し遂げた。
 その上彼は、鳩《はと》の白きがように率直であって何らの疑念をもいだいていないコゼットに、それとなくいろいろなことを尋ねてみた。彼女の子供の時のこと、彼女の若い時のこと、それについて彼女と話をしてみた。そしてあの徒刑囚がコゼットに対して、およそあり得る限り善良で慈悲深くりっぱに振る舞ってきたことを、しだいに確認するに至った。マリユスが推察し仮定していたことはすべて事実だった。その気味悪い蕁麻《いらくさ》はこの百合《ゆり》を愛して保護してきたのであった。
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   第八編 消えゆく光


     一 下の室《へや》

 翌日、夜になろうとする頃、ジャン・ヴァルジャンはジルノルマン家を表門から訪れた。彼を迎えたのはバスクだった。バスクはちょうど中庭に出ていて、何か言いつけを受けてでもいるがようだった。誰某《だれそれ》さんがこられるから気をつけておいでと召し使いに言うと、ちょうどその人がやってくる、そういうことも時々あるものである。
 バスクはジャン・ヴァルジャンが近寄るのも待たないで、彼に言葉をかけた。
「二階がおよろしいか階下《した》がおよろしいか伺うようにと、男爵様の仰せでございます。」
「階下《した》にしよう。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
 バスクはもとよりきわめて恭《うやうや》しい態度で、低い室の扉《とびら》を開いて、そして言った。「ただ今奥様に申し上げます。」
 ジャン・ヴァルジャンが通されたのは、丸天井のついたじめじめした階下の室で、時々物置きに使われ、街路に面し、赤い板瓦が舗《し》いてあり、鉄格子《てつごうし》のついた窓が一つあるきりで、中は薄暗かった。
 それははたきやブラシや箒《ほうき》でいじめられる室《へや》ではなかった。ほこりは静かに休らっていた。蜘蛛《くも》は何らの迫害も受けないでいた。りっぱな蜘蛛の巣が一つ、まっ黒に大きくひろげられ蠅の死体で飾られて、窓ガラスの上に車輪のようにかかっていた。室は狭くて天井も低く、一隅には空罎《あきびん》が積まれていた。石黄色の胡粉《ごふん》で塗られた壁は、所々大きく剥落《はくらく》していた。奥の方に黒塗りの木の暖炉が一つあって、狭い棚《たな》がついていた。中には火が燃えていた。それは「階下にしよう[#「階下にしよう」に傍点]」というジャン・ヴァルジャンの返事が既に予期されてたことを、明らかに示すものだった。
 二つの肱掛《ひじか》け椅子《いす》が暖炉の両すみに置かれていた。椅子の間には、毛よりも糸目の方がよけいに見えてる古い寝台敷きが、絨毯《じゅうたん》の代わりにひろげられていた。
 室の中は暖炉の火の輝きと窓からさす薄明りとで照らされてるのみだった。
 ジャン・ヴァルジャンは疲れていた。数日来食も取らず眠ってもいなかった。彼は肱掛け椅子の一つに身を落とした。
 バスクが戻ってきて、点火《とも》した蝋燭《ろうそく》を一本暖炉の上に置き、また出て行った。ジャン・ヴァルジャンは首をたれ、頤《あご》を胸に埋めて、バスクにも蝋燭にも目を向けなかった。
 突然彼は飛び上がるようにして身を起こした。コゼットが彼のうしろに立っていた。
 彼は彼女がはいってくるのを見はしなかったが、その気配《けはい》を感じたのだった。
 彼は振り向いて彼女をながめた。彼女はいかにもあでやかな美しさだった。しかし彼がその深い眼眸《ひとみ》でながめたのは、その美ではなくて魂であった。
「まあ、」とコゼットは叫んだ、「何というお考えでしょう! お父様、私あなたが変わったお方だとは知っていましたが、こんなことをなさろうとは思いもよりませんでしたわ。ここで私に会いたいとおっしゃるのだと、マリユスが申すのですよ。」
「そう、私から願ったことだ。」
「そうおっしゃるだろうと思っていました。ようございます。仕返しをしてあげますから。でもまあ最初のことからしましょう。お父様、私を接吻して下さいな。」
 そして彼女は頬《ほお》を差し出した。
 ジャン・ヴァルジャンは不動のままでいた。
「お動きなさいませんのね。わかりますよ。罪人のようですわ。でもとにかく許してあげます。イエス・キリストも言われました、他の頬をもめぐらしてこれに向けよと。さあここにございます。」
 そして彼女は他の頬を差し出した。
 ジャン・ヴァルジャンは身動きもしなかった。あたかもその足は床に釘《くぎ》付けにされてるがようだった。
「本気でそうしていらっしゃるの。」とコゼットは言った。「私あなたに何かしましたかしら。ほんとに困ってしまいますわ。私あなたに貸しがありますのよ。今日は私どもといっしょに御飯を召し上がって下さらなければいけません。」
「食事は済んでいる。」
「嘘《うそ》ですわ。私ジルノルマン様にあなたをしかっていただきますよ。お祖父様《じいさま》ならお父様を少したしなめることができます。さあ、私といっしょに客間にいらっしゃいよ、すぐに。」
「いけない。」
 それでコゼットは多少地歩を失った。彼女は上手《うわて》に出るのをやめて、こんどはいろいろ尋ねるようになった。
「どうしてでしょう! 私に会うのに家で一番きたない室《へや》をお望みなさるなんて。ここはほんとにひどいではありませんか。」
「お前も知っ……。」
 ジャン・ヴァルジャンは言い直した。
「奥さんも御存じのとおり、私は変人だ、私にはいろいろ変わった癖がある。」
 コゼットは小さな両手をたたいた。
「奥さん! 御存じのとおり!……それもまた変だわ。どういうわけでしょう?」
 ジャン・ヴァルジャンは時々ごまかしにやる例の悲痛なほほえみを彼女に向けた。
「あなたは奥さんになることを望んだ。そして今奥さんになっている。」
「でもあなたに対してはそうではありませんわ、お父様。」
「もう私を父と呼んではいけない。」
「まあ何をおっしゃるの?」
「私をジャンさんと呼ばなければいけない、あるいはジャンでもいい。」
「もう父ではないんですって、私はもうコゼットではないんですって、ジャンさんですって。いったいどうしてでしょう。大変な変わりようではありませんか。何か起こったのですか。まあ私の顔を少し見て下さいな。あなたは私どもといっしょに住むのをおきらいなさるのね。私の室をおきらいなさるのね。私あなたに何をしまして! 何をしましたでしょう。何かあるのでございましょう。」
「いや何にも。」
「それで?」
「いつもと少しも変わりはない。」
「ではなぜ名前をお変えなさるの。」
「あなたも変えている。」
 彼はまた微笑をして言い添えた。
「あなたはポンメルシー夫人となっているし、私はジャンさんとなっても不思議ではない。」
「私にはわけがわかりませんわ。何だかばかげてるわ。あなたをジャンさんと言ってよいか夫《おっと》に聞いてみましょう。きっと許してはくれないでしょう。あなたはほんとに、大変私に心配をさせなさいますのね。いくら変わった癖があるからといって、この小さなコゼットを苦しめてはいけません。悪いことですわ。あなたは親切な方だから、意地悪をなすってはいけません。」
 彼は答えなかった。
 彼女は急に彼の両手を取り、拒む間を与えずそれを自分の顔の方へ持ち上げ、頤《あご》の下の首元に押しあてた。それは深い愛情を示す所作だった。
「どうか、」と彼女は言った、「親切にして下さいな。」
 そして彼女は言い進んだ。
「私が親切というのはこういうことですわ。意地っ張りをなさらないで、ここにきてお住みになって、またちょいちょいいっしょに散歩して下すって、プリューメ街のようにここにも小鳥がいますから、私どもといっしょにお暮らしなすって、オンム・アルメ街のひどい家をお引き払いになり、私たちにいろんな謎《なぞ》みたいなことをなさらず、普通のとおりにしていらっして、私どもといっしょに晩餐《ばんさん》もなされば、私どもといっしょに昼御飯もお食べになり、私のお父様になって下さることですわ。」
 彼は取られた手を離した。
「あなたにはもう父はいらない、夫《おっと》があるから。」
 コゼットは少し気を悪くした。
「私に父がいらないんですって! そんな無茶なことをおっしゃるなら、もう申し上げる言葉もありません。」
「トゥーサンだったら、」とジャン・ヴァルジャンは考えの拠《よ》り所を求めて何でも手当たりしだいにつかもうとしてるかのように言った、「私にはまったくいつも自己一流のやり方があることを、一番に認めてくれるだろう。何も変わったことが起こったのではない。私はいつも自分の薄暗い片すみを好んでいた。」
「でもここは寒うございます。物もよく見えません。そしてジャンさんと言ってくれとおっしゃるのも、あまりひどすぎます。私にあなたなんておっしゃるのもいやです。」
「ところで、さっきここへ来る途中、」とジャン・ヴァルジャンはそれに答えて言った、「サン・ルイ街で私の目についた道具が一つある。道具屋の店先に置いてあった。私がもしきれいな女だったらあの道具をほしがったに違いない。ごくりっぱにできてる新式の化粧台だった。たしかあなたが薔薇《ばら》の木と言っていたあの道具だった。篏木細工《はめきざいく》も施してあった。鏡もかなり大きかった。引き出しもいくつかついていた。実にきれいなものだった。」
「ほんとに人をばかにしていらっしゃるわ!」とコゼットは答え返した。
 そしてこの上もないかわいい様子で、歯をくいしばり、脣《くちびる》を開いて、ジャン・ヴァルジャンに息を吹きかけた。それは猫のまねをした美の女神だった。
「私はもう腹が立ってなりません。」と彼女は言った。「昨日《きのう》から、みんなで私にひどいことばかりなさるんですもの。私はほんとに怒っています[#「怒っています」は底本では「恐って
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